・・・そうして朱鞘の短刀を引き摺り出した。ぐっと束を握って、赤い鞘を向へ払ったら、冷たい刃が一度に暗い部屋で光った。凄いものが手元から、すうすうと逃げて行くように思われる。そうして、ことごとく切先へ集まって、殺気を一点に籠めている。自分はこの鋭い・・・ 夏目漱石 「夢十夜」
・・・磨ぎすました斧を左手に突いて腰に八寸ほどの短刀をぶら下げて身構えて立っている。余は覚えずギョッとする。女は白き手巾で目隠しをして両の手で首を載せる台を探すような風情に見える。首を載せる台は日本の薪割台ぐらいの大きさで前に鉄の環が着いている。・・・ 夏目漱石 「倫敦塔」
・・・ すると何のことはない、デストゥパーゴはそのみじかいナイフを剣のように持って一生けんめいファゼーロの胸をつきながら後退りしましたしファゼーロは短刀をもつように柄をにぎってデストゥパーゴの手首をねらいましたので、三度ばかりぐるぐるまわって・・・ 宮沢賢治 「ポラーノの広場」
・・・ 女の机の上にはいつでも短刀が置いてあった。虹をはく様なその色、そのかがやき、そのさきのほそさ、ひやっこさ、等がそれに似寄った心をもって居るお龍の気に入って居た。まじめにまじりっけのない気持でお龍のところに通って来るまだ若い男があった。・・・ 宮本百合子 「お女郎蜘蛛」
・・・次に臂をずっと底までさし入れて、短刀を一本取り出した。当番の夜父三右衛門が持っていた脇差である。りよは二品を手早く袱紗に包んで持って出た。 文吉は敵を掴まえた顛末を、途中でりよに話しながら、護持院原へ来た。 りよは九郎右衛門に挨・・・ 森鴎外 「護持院原の敵討」
・・・お蝶の傍には、佐野さんが自分の頸を深くえぐった、白鞘の短刀の柄を握って死んでいた。頸動脉が断たれて、血が夥しく出ている。火鉢の火には灰が掛けて埋めてある。電灯には血の痕が附いている。佐野さんがお蝶の吭を切ってから、明りを消して置いて、自分が・・・ 森鴎外 「心中」
・・・六郎が父は、其夜酔臥したりしが、枕もとにて声掛けられ、忽ちはね起きて短刀抜きはなし、一たち斫られながら、第二第三の太刀を受けとめぬ。その命を断ちしは第四の太刀なりき。六郎が母もこの夜殺されぬ。はじめ家族までも傷けんという心はなかりしが、きり・・・ 森鴎外 「みちの記」
・・・菊地慎太郎は行く春の桜の花がチラと散る夕べ、亡父の墓を前にして、なつかしき母の胸より短刀のひらめきを見た。氷のごときその光は一瞬も菊地君の頭から離れぬ。やがてこの光が恩賜の時計の光となった。この美しい情は「愛」の上にたつ人の身の霊的興奮であ・・・ 和辻哲郎 「霊的本能主義」
出典:青空文庫