・・・ 壁際の籐椅子に倚った房子は、膝の三毛猫をさすりながら、その窓の外の夾竹桃へ、物憂そうな視線を遊ばせていた。「旦那様は今晩も御帰りにならないのでございますか?」 これはその側の卓子の上に、紅茶の道具を片づけている召使いの老女の言・・・ 芥川竜之介 「影」
・・・保吉は下宿の古籐椅子の上に悠々と巻煙草へ火を移した。彼の心は近頃にない満足の情に溢れている。溢れているのは偶然ではない。第一に彼は十円札を保存することに成功した。第二にある出版書肆は今しがた受取った手紙の中に一冊五十銭の彼の著書の五百部の印・・・ 芥川竜之介 「十円札」
・・・それから、籐椅子に尻を据えて、勝手な気焔をあげていると、奥さんが三つ指で挨拶に出て来られたのには、少からず恐縮した。 すると、向うの家の二階で、何だか楽器を弾き出した。始はマンドリンかと思ったが、中ごろから、赤木があれは琴だと道破した。・・・ 芥川竜之介 「田端日記」
・・・ 僕はちょうどそこにあった、古い籐椅子にかけることにしました。「昨晩はお休みになれなかったでしょう?」「いいえ、……何かあったのですか?」「あの気の違った男の方がいきなり廊下へ駈け出したりなすったものですから。」「そんな・・・ 芥川竜之介 「手紙」
・・・…… 僕は妻の実家へ行き、庭先の籐椅子に腰をおろした。庭の隅の金網の中には白いレグホン種の鶏が何羽も静かに歩いていた。それから又僕の足もとには黒犬も一匹横になっていた。僕は誰にもわからない疑問を解こうとあせりながら、とにかく外見だけは冷・・・ 芥川竜之介 「歯車」
・・・わたしはこのモデルにも満足し、彼女を籐椅子の上へ坐らせて見た後、早速仕事にとりかかることにした。裸になった彼女は花束の代りに英字新聞のしごいたのを持ち、ちょっと両足を組み合せたまま、頸を傾けているポオズをしていた。しかしわたしは画架に向うと・・・ 芥川竜之介 「夢」
・・・ と、どうした料簡だか、ありあわせた籐椅子に、ぐったりとなって肱をもたせる。「あなた、お寒くはございませんの。」「今度は赫々とほてるんだがね。――腰が抜けて立てません。」「まあ……」 三「お澄さん・・・ 泉鏡花 「鷭狩」
・・・ 教授は敷居へ、内へ向けて引きながら、縁側の籐椅子に掛けた。「君は、誰を斬るつもりかね。」「うむ、汝から先に……当前じゃい。うむ、放せ、口惜いわい。」「迷惑をするじゃあないか。旅の客が湯治場の芸妓を呼んで遊んだが、それがどう・・・ 泉鏡花 「みさごの鮨」
・・・ ぞろぞろと随いてはいって来た女たちに何を飲むかともきかず、さっさと註文して、籐椅子に収まりかえってしまった。 松本はあきれた。まるで、自分が宰領しているような調子ではないかと、思わず坂田の顔を見た。律気らしく野暮にこぢんまりと引き・・・ 織田作之助 「雪の夜」
・・・そこは私たちが古い籐椅子を置き、簡単な腰掛け椅子を置いて、互いに話を持ち寄ったり、庭をながめたりして来た場所だ。毎年夏の夕方には、私たちが茶の間のチャブ台を持ち出して、よく簡単な食事に集まったのもそこだ。 庭にあるおそ咲きの乙女椿の蕾も・・・ 島崎藤村 「嵐」
出典:青空文庫