・・・ 遠藤は手紙を読み終ると、懐中時計を出して見ました。時計は十二時五分前です。「もうそろそろ時刻になるな、相手はあんな魔法使だし、御嬢さんはまだ子供だから、余程運が好くないと、――」 遠藤の言葉が終らない内に、もう魔法が始まる・・・ 芥川竜之介 「アグニの神」
・・・三尺ほどの穴を掘り終ると仁右衛門は鍬の手を休めて額の汗を手の甲で押拭った。夏の夜は静かだった。その時突然恐ろしい考が彼れの吐胸を突いて浮んだ。彼れはその考に自分ながら驚いたように呆れて眼を見張っていたが、やがて大声を立てて頑童の如く泣きおめ・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・ やがて、自分のを並べ果てて、対手の陣も敷き終る折から、異香ほのぼのとして天上の梅一輪、遠くここに薫るかと、遥に樹の間を洩れ来る気勢。 円形の池を大廻りに、翠の水面に小波立って、二房三房、ゆらゆらと藤の浪、倒に汀に映ると見たのが、次・・・ 泉鏡花 「伊勢之巻」
・・・お増は長い話を終るや否やすぐ家へ帰った。 なるほどそうであったか、姉は勿論母までがそういう心になったでは、か弱い望も絶えたも同様。心細さの遣瀬がなく、泣くより外に詮がなかったのだろう。そんなに母に叱られたか……一晩中泣きとおした……なる・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
・・・いよいよ着手してから描き終るまでは誰にも会わないで、この画のために亡師椿年から譲られた応挙伝来の秘蔵の大明墨を使用し尽してしまったそうだ。椿岳が一生の大作として如何にこの画に精神を注いだかは想像するに余りがある。幸いこの画は地震の禍いをも受・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・と嘆じ、この悲嘆の声を発してわれわれが生涯を終るのではないかと思うて失望の極に陥ることがある。しかれども私はそれよりモット大きい、今度は前の三つと違いまして誰にも遺すことのできる最大遺物があると思う。それは実に最大遺物であります。金も実に一・・・ 内村鑑三 「後世への最大遺物」
・・・それが歌い終わると、にぎやかな笑い声が起こって楽しそうにみんなが話をしています。じいさんは喜んで、笑い顔をして目を細くして、三人の娘らの顔を見比べているようでありました。三 さよ子は、この世間にも、楽しい美しい家庭があるもの・・・ 小川未明 「青い時計台」
・・・ 新造と金之助と一通り挨拶の終るのを待って、お光は例の風呂敷を解いて夫に見せた。桐の張附けの立派な箱に紅白の水引をかけて、表に「越の霙」としてある。「お前さん、こんな物を頂戴しましたよ」「そうか。いや金さん、こんなことをしておく・・・ 小栗風葉 「深川女房」
・・・ 女はいきなりショールをとって、長ったらしい挨拶を私にした。終ると、男も同じように、糞丁寧な挨拶をした。 私はなにか夫婦の営みの根強さというものをふと感じた。 汽車が来た。 男は窓口からからだを突きだして、「どないだ。石・・・ 織田作之助 「秋深き」
・・・「やはり俺のように愚かに生れついた人間は、自分自身に亡霊相手に一生を終る覚悟でいた方が、まだしもよかったらしい。柄にもない新生活なぞと言ってきても、つまりはよけいな憂目を妻子どもに見せるばかしだ」さりとて継母の提議に従って、山から材木を・・・ 葛西善蔵 「贋物」
出典:青空文庫