・・・老人は自分を洗い終ると次にはその児にかかりました。幼い手つきで使っていた石鹸のついた手拭は老人にとりあげられました。老人の顔があちら向きになりましたので私は、自分の方へその子の目を誘うのを予期して、じっと女の児の顔を見ました。やがてその子の・・・ 梶井基次郎 「橡の花」
・・・そして心ひそかに歓んだ、その理由は、かれ初めより無事に日を送ることをよろこばなかった、のみならずついに何事をもなさず何をしでかすることなく一生空しく他の厄介で終わるということは彼にとって多少の苦痛であった。 希望なき安心の遅鈍なる生活も・・・ 国木田独歩 「河霧」
・・・ しかしすべての結合がこういった純真な悲劇で終わるとはもとより限らない。ある者はやむなく、ある者は苦々しく、またある者は人生の知恵から別れなければならないのである。有名な「新生」の主人公は節子に数珠を与えるがやはり別れねばならなかった。・・・ 倉田百三 「人生における離合について」
・・・そのあくびが終るか終らないうちに、彼は、ぱたりと丸太を倒すように芝生の上に倒れてしまった。 吉永は、とび上った。 も一発、弾丸が、彼の頭をかすめて、ヒウと唸り去った。「おい、坂本! おい!」 彼は呼んでみた。 軍服が、ど・・・ 黒島伝治 「渦巻ける烏の群」
・・・と唱い終ると、また他の一人が声張り上げて、桑を摘め摘め、爪紅さした 花洛女郎衆も、桑を摘め。と唱ったが、その声は実に前の声にも増して清い澄んだ声で、断えず鳴る笛吹川の川瀬の音をもしばしは人の耳から逐い払っ・・・ 幸田露伴 「雁坂越」
・・・Y署の二十九日が終ると、裁判所へ呼び出されて、予審判事から検事の起訴理由を読みきかせられた。それから簡単な調書をとられた。「じゃ、T刑務所へ廻っていてもらいます。いずれ又そこでお目にかゝりましょう。」 好男子で、スンなりとのびた白い・・・ 小林多喜二 「独房」
・・・その住職は多年諸国の行脚を思い立ちながら、寺の後継者の成長する日まで待ち、破れた本堂の屋根の修繕を終る日まで待ちするうちに、だんだん年をとってしまって、いよいよ行脚に出掛ける頃は既に七十の歳であったという。昼は昼食、夜は一泊、行くさきざきの・・・ 島崎藤村 「食堂」
・・・という同人雑誌を発行し、ご自身は、その表紙の絵をかいたり、また、たまには「苦笑に終る」などという淡彩の小説を書いて発表したりしていました。夢川利一という筆名だったので、兄や姉たちは、ひどい名前だといって閉口し、笑っていました。RIICHI ・・・ 太宰治 「兄たち」
・・・何かの思想あるいは何かの発明の起源を捜そうとする労力は、太陽の下に新しき物なしというあっけない結論に終るに極っている。そうかと云って本当に偉大なものが全くの借り物であるという事もありようはない。それで何でも人からくれるものが善いものであれば・・・ 寺田寅彦 「浅草紙」
・・・ わたくしは思想と感情とにおいても、両ながら江戸時代の学者と民衆とのつくった伝統に安んじて、この一生を終る人である。一たび伝統の外に出たいと願ったこともあったが、中途にしてその不可能であることを知った。わたくしをして過去の感化を一掃する・・・ 永井荷風 「西瓜」
出典:青空文庫