・・・りげに撲いた吸殻、落ちかけて落ちぬを何の呪いかあわてて煙草を丸め込みその火でまた吸いつけて長く吹くを傍らにおわします弗函の代表者顔へ紙幣貼った旦那殿はこれを癪気と見て紙に包んで帰り際に残しおかれた涎の結晶ありがたくもないとすぐから取って俊雄・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
・・・またいう、「彼の作品は常に作後の喝采を目標として、病弱の五体に鞭うつ彼の虚栄心の結晶であった。」そうであろう。堂々と自分のつらを、こんなにあやしいほど美しく書き装うてしかもおそらくは、ひとりの貴婦人へ頗る高価に売りつけたにちがいない二十三歳・・・ 太宰治 「もの思う葦」
・・・有頂天こそ嘘の結晶だ、ひかえようと無理につとめたけれど、酔いがそうさせなかった。三郎のなまなかの抑制心がかえって彼自身にはねかえって来て、もうはややけくそになり、どうにでもなれと口から出まかせの大嘘を吐いた。私たちは芸術家だ。そういう嘘を言・・・ 太宰治 「ロマネスク」
・・・フォークトはその結晶物理学の冒頭において結晶の整調の美を管弦楽にたとえているが、また最近にラウエやブラグの研究によって始めて明らかになった結晶体分子構造のごときものに対しても、多くの人は一種の「美」に酔わされぬわけに行かぬ事と思う。この種の・・・ 寺田寅彦 「科学者と芸術家」
・・・ 例えばまた過飽和の状態にある溶液より結晶が析出する場合のごとき、これがいつ結晶を始め、また結晶の心核が如何に分布さるべきかを精密に予報せんとする時、単に温度従って過飽和度を知るのみにては的中の見込は極めて小なるべし。ただ吾人は過飽和度・・・ 寺田寅彦 「自然現象の予報」
・・・ 梨の葉の病の場合はあるいは毛虫などとの類似から来る連想によるかもしれないが、後の針状結晶と毛虫とでは距離があまりに大き過ぎるようである。むしろありまきやうじや蚤などのようなものが群集したところを連想するのかもしれない。そうしたものが自・・・ 寺田寅彦 「自由画稿」
・・・ この重要な研究の基礎となる実測資料は実にことごとくわが陸地測量部員の汗血の結晶でできたものである。もっともこの測量には多大の費用がかかるのであるが、それは幸いに帝国学士院や、原田積善会、服部報公会等の財団または若干篤志家の有力な援助に・・・ 寺田寅彦 「地図をながめて」
・・・人の血、人の肉、人の罪が結晶して馬、車、汽車の中に取り残されたるは倫敦塔である。 この倫敦塔を塔橋の上からテームス河を隔てて眼の前に望んだとき、余は今の人かはた古えの人かと思うまで我を忘れて余念もなく眺め入った。冬の初めとはいいながら物・・・ 夏目漱石 「倫敦塔」
・・・(水ではないぞ、また曹達や何かの結晶だぞ。いまのうちひどく悦んで欺されたとき力を落私は自分で自分に言いました。 それでもやっぱり私は急ぎました。 湖はだんだん近く光ってきました。間もなく私はまっ白な石英の砂とその向うに音なく湛え・・・ 宮沢賢治 「インドラの網」
・・・小さな石英の結晶です。持っておいでなさい。〕誰だ崖の上で叫んでいるのは。「先生。おら河童捕りしたもや。河童捕り。」藤原健太郎だ。黒の制服を着て雑嚢をさげ、ひどくはしゃいで笑っている。どうしていまごろあんな崖の上などに顔を出したのだ。・・・ 宮沢賢治 「台川」
出典:青空文庫