・・・が、世界の美人を一人で背負って立ったツモリの美貌自慢の夫人が択りに択って面胞だらけの不男のYを対手に恋の綱渡りをしようとは誰が想像しよう。孔雀が豚を道連れにするエソップにでもありそうな図が憶出された。「あの奥さんがYと?」と私は何度も何・・・ 内田魯庵 「三十年前の島田沼南」
・・・また吉田がこの状態を続けてゆくというのには絶えない努力感の緊張が必要であって、もしその綱渡りのような努力になにか不安の影が射せばたちどころに吉田は深い苦痛に陥らざるを得ないのだった。――しかしそんなことはいくら考えても決定的な知識のない吉田・・・ 梶井基次郎 「のんきな患者」
・・・びせられたる一旦の拍子ぬけその砂肚に入ってたちまちやけの虫と化し前年より父が預かる株式会社に通い給金なり余禄なりなかなかの収入ありしもことごとくこのあたりの溝へ放棄り経綸と申すが多寡が糸扁いずれ天下は綱渡りのことまるまる遊んだところが杖突い・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
・・・自分でも忘却してしまいましたが、私自身が、女に好かれて好かれて困るという嘘言を節度もなしに、だらだら並べて、この女難の系統は、私の祖父から発していて、祖父が若いとき、女の綱渡り名人が、村にやって来て、三人の女綱渡りすべて、祖父が頬被りとった・・・ 太宰治 「虚構の春」
・・・私には、あなたが、たいへんな危い綱渡りをはじめているような気がして、恐しくてなりませんでした。いまに、きっと、悪い事が起る。あなたは、そんな俗な交際などなさって、それで成功なさるようなお方では、ありません。そう思って、私は、ただはらはらして・・・ 太宰治 「きりぎりす」
・・・サアカスの綱渡りの映画だったが、芸人が芸人に扮すると、うまいね。どんな下手な役者でも、芸人に扮すると、うめえ味を出しやがる。根が、芸人なのだからね。芸人の悲しさが、無意識のうちに、にじみ出るのだね。」 恋人同士の話題は、やはり映画に限る・・・ 太宰治 「メリイクリスマス」
・・・それをまた組立てて綱渡りをさせるのが自分の責任だがどうしたらよいかと思い惑っていると、周囲のラウベンコロニーの青い小屋からドイツ人の男女がぞろぞろ出て来た。 なんだかこんな風な夢であったのですが、今この新短歌を読んでいると、不思議にこの・・・ 寺田寅彦 「御返事(石原純君へ)」
・・・余は夏蜜柑を食いながら、目分量で一間幅の道路を中央から等分して、その等分した線の上を、綱渡りをする気分で、不偏不党に練って行った。穴から手を出して制服の尻でも捕まえられては容易ならんと思ったからである。子規は笑っていた。膝掛をとられて顫えて・・・ 夏目漱石 「京に着ける夕」
出典:青空文庫