・・・そのなかには一人の禿顱の老人が煙草盆を前にして客のような男と向かい合っているのが見えた。しばらくそこを見ていると、そこが階段の上り口になっているらしい部屋の隅から、日本髪に頭を結った女が飲みもののようなものを盆に載せながらあらわれて来た。す・・・ 梶井基次郎 「ある崖上の感情」
・・・欄干にあらわれたるは五十路に近き満丸顔の、打見にも元気よき老人なり。骨も埋もるるばかり肥え太りて、角袖着せたる布袋をそのまま、笑ましげに障子の中へ振り向きしが、話しかくる一言の末に身を反らせて打ち笑いぬ。中なる人の影は見えず。 われを嘲・・・ 川上眉山 「書記官」
・・・のうば車さえ考えものという始末なれど、祖父様には貞夫もはや重く抱かれかね候えば、乳母車に乗せてそこらを押しまわしたきお望みに候間近々大憤発をもって一つ新調をいたすはずに候 一輛のうば車で小児も喜び老人もまた小児のごとく喜びたもうかと思え・・・ 国木田独歩 「初孫」
・・・垢に汚れた老人だ。通訳が、何か、朝鮮語で云って、手を動かした。腰掛に坐れと云っていることが傍にいる彼に分った。だが鮮人は、飴のように、上半身をねち/\動かして、坐ろうとしなかった。「坐れ、なんでもないんだ。」 老人は、圧えつけられた・・・ 黒島伝治 「穴」
・・・ 二人はだんだんと竿に見入っている中に、あの老人が死んでも放さずにいた心持が次第に分って来ました。 「どうもこんな竹は此処らに見かけねえですから、よその国の物か知れませんネ。それにしろ二間の余もあるものを持って来るのも大変な話だし。・・・ 幸田露伴 「幻談」
・・・嫂が旧いなじみの人々で、三十年の昔を語り合おうとするような男の老人はもはやこの村にはいなかった。そういう老人という老人はほとんど死に絶えた。招かれて来るお客はお婆さんばかりで、腰を曲めながらはいって来る人のあとには、すこし耳も遠くなったとい・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・その六人の跡から、ただ一人忙しい、不揃な足取で、そのくせ果敢の行かない歩き方で、老人が来る。丈が低く、がっしりしていて、背を真直にして歩いている。項は広い。その上に、直ぐに頭が付いている。背後にだけ硬い白髪の生えている頭である。破れた靴が大・・・ 著:シュミットボンウィルヘルム 訳:森鴎外 「鴉」
・・・「何か、無いかねえ。」長兄は、尊大に、あたりを見まわす。「きょうは、ちょっと、ふうがわりの主人公を出してみたいのだが。」「老人がいいな。」次女は、卓の上に頬杖ついて、それも人さし指一本で片頬を支えているという、どうにも気障な形で、「・・・ 太宰治 「愛と美について」
・・・ 炉の前に、大きな肘掛椅子に埋もれた、一人の白髪の老人が現われる。身動き一つしないで、じっと焔を見詰めている。焔の中を透して過去の幻影を見詰めている。 焔の幕の向うに大きな舞踊の場が拡がっている。華やかな明るい楽の音につれて胡蝶のよ・・・ 寺田寅彦 「ある幻想曲の序」
・・・兵事課じゃ、何か悪いことでもあったかと吃驚したそうでござえんすがね、何々然云う訳じゃねえ、其小野某と云う者の家に、大瀬上等兵の親御がある筈だ、その老人に逢わしてくれと云うんで、その時そのお二方は、手前とこまでお訪ね下すったが、私は外へ出てい・・・ 徳田秋声 「躯」
出典:青空文庫