・・・その顔には浮世の苦労が陰鬱に刻まれていた。彼はひと言も物を言わずに箸を動かしていた。そしてその顔色の悪い子供も黙って、馴れない手つきで茶碗をかきこんでいたのである。彼はそれを見ながら、落魄した男の姿を感じた。その男の子供に対する愛を感じた。・・・ 梶井基次郎 「ある崖上の感情」
・・・予算から寄附金のことまで自分が先に立って苦労する。敷地の買上、その代価の交渉、受負師との掛引、割当てた寄附金の取立、現金の始末まで自分に為せられるので、自然と算盤が机の上に置れ通し。持前の性分、間に合わして置くことが出来ず、朝から寝るまで心・・・ 国木田独歩 「酒中日記」
・・・ ただ私は当時物質的苦労、社会的現実というもの、つまり「世間」を知らなかったから、今の私から見て甘いことはたしかに甘い。あのころもし「世間」を知っていたらあんな純な、憧憬に満ちた作は書けなかったろうと思う。世の多くの人たちがあれを好くの・・・ 倉田百三 「『出家とその弟子』の追憶」
一 為吉とおしかとが待ちに待っていた四カ年がたった。それで、一人息子の清三は高等商業を卒業する筈だった。両人は息子の学資に、僅かばかりの財産をいれあげ、苦労のあるだけを尽していた。ところが、卒業まぎわにな・・・ 黒島伝治 「老夫婦」
・・・トいう訳だけで、ほかに何があったのでも無いのですから、まわり気の苦労はなさらないでいいのですヨ。おめでたいことじゃありませんかネ、ハハハ。」と朗かに笑った。ここの細君は今はもう暗雲を一掃されてしまって、そこは女だ、ただもう喜びと安心とを・・・ 幸田露伴 「鵞鳥」
・・・ますます進歩し、物質的には公衆衛生の知識がいよいよ発達し、一切の公共の設備が安固なのはもとより、各個人の衣食住もきわめて高等・完全の域に達すると同時に、精神的にもつねに平和・安楽であって、種々の憂悲・苦労のために心身をそこなうがごときことの・・・ 幸徳秋水 「死刑の前」
・・・私はその間の娘の苦労を思って、胸がつまりました。それでも機嫌よく話をしていました。 私たち親子はその晩久しぶりで――一年振りかも知れません――そろって銭湯に出かけて行きました。「お母さんの背中を流してあげるわ。」この娘がいつになくそんな・・・ 小林多喜二 「疵」
・・・あのあたりの家はみな暖かい巣のような家であって、明るい人懐かしげな窓の奥からは折々面白げに外を見ている女の首が覗いたり、または清い苦労のなさそうな子供の笑声が洩れるのであった。老人はそういう家を一軒一軒心配げな、物を試すような、熱のある目で・・・ 著:シュミットボンウィルヘルム 訳:森鴎外 「鴉」
・・・ こんなふうにおもしろく、二人は苦労もわすれて歩きました。もう赤楊の林さえぬければ、「日の村」へ着くはずでした。やがて二人は丘を登って右に曲がろうとすると、そこにまた雄牛が一匹立っているのに出会いました。 にげる事もかないません。く・・・ 著:ストリンドベリアウグスト 訳:有島武郎 「真夏の夢」
・・・ 彼女を結婚させなければならないと云うことは、スバーの両親にとって、一方ならない苦労でした。近所の人達は、親の責任を果さないと云って、悪く云います。中には、世間並の交際などは出来ない者として噂する者さえありました。バニカンタは、何不自由・・・ 著:タゴールラビンドラナート 訳:宮本百合子 「唖娘スバー」
出典:青空文庫