・・・ ガソリンカアは、のろのろ進み、金木駅に着いた。見ると、改札口に次兄の英治さんが立っている。笑っている。 私は、十年振りに故郷の土を踏んでみた。わびしい土地であった。凍土の感じだった。毎年毎年、地下何尺か迄こおるので、土がふくれ上っ・・・ 太宰治 「帰去来」
・・・十九日の晩ちょうど台湾の東方に達した頃から針路を東北に転じて二十日の朝頃からは琉球列島にほぼ平行して進み出した。それと同時に進行速度がだんだんに大きくなり中心の深度が増して来た。二十一日の早朝に中心が室戸岬附近に上陸する頃には颱風として可能・・・ 寺田寅彦 「颱風雑俎」
・・・カステラや鴨南蛮が長崎を経て内地に進み入り、遂に渾然たる日本的のものになったと同一の実例であろう。 自分はいつも人力車と牛鍋とを、明治時代が西洋から輸入して作ったものの中で一番成功したものと信じている。敢て時間の経過が今日の吾人をして人・・・ 永井荷風 「銀座」
・・・に御記憶を願っておいて、話がまた後戻りをする恐れがあるかも知れないが、前申した通り人文発達の順序として職業が大変割れて細かくなると妙な結果を我々に与えるものだからその結果を一口御話をして、そうして先へ進みたいと思います。私の見るところによる・・・ 夏目漱石 「道楽と職業」
・・・と、吉里の室に入ッて来たお熊は、次の間に立ッたまま上の間へ進みにくそうに見えた善吉へ言った。 上の間の唐紙は明放しにして、半ば押し除けられた屏風の中には、吉里があちらを向いて寝ているのが見える、風を引きはせぬかと気遣われるほど意気地のな・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・然ばすなわち、いやしくも改進者流をもって自からおる者は、たとい官員にても平人にても、この政府の精神とともに方向をともにし、その改むるところを改め、その進むところに進み、次第に自家の境界を開きて前途に敵なく、ついには、かの守旧家の強きものをも・・・ 福沢諭吉 「学者安心論」
・・・ 余は断定を下していわん、曙覧の歌想は『万葉』より進みたるところあり、曙覧の歌調は『万葉』に及ばざるところありと。まず歌想につきて論ぜん。〔『日本』明治三十二年三月二十八日〕 歌想に主観的なるものと客観的なるものとあり。『万葉』・・・ 正岡子規 「曙覧の歌」
・・・私はしずかにそっちへ進み愕かさないようにごく声低く挨拶しました。「お早う、于大寺の壁画の中の子供さんたち。」 三人一緒にこっちを向きました。その瓔珞のかがやきと黒い厳めしい瞳。 私は進みながらまた云いました。「お早う。于大寺・・・ 宮沢賢治 「インドラの網」
・・・だから若い進歩的な人々は、ただ親を――古い時代を論破するという段階からはずっと進みでているわけで、休暇中に国へ帰っている学生たちの仕事は、その土地での生活擁護のいろいろな活動に入っていって、実際に土地の住民としての親が苦しんでいる問題を解決・・・ 宮本百合子 「新しい抵抗について」
・・・ 閭はこう見当をつけて二人のそばへ進み寄った。そして袖を掻き合わせてうやうやしく礼をして、「朝儀大夫、使持節、台州の主簿、上柱国、賜緋魚袋、閭丘胤と申すものでございます」と名のった。 二人は同時に閭を一目見た。それから二人で顏を見合・・・ 森鴎外 「寒山拾得」
出典:青空文庫