・・・白いシーツのように見えていたのがそれで、静かに立ち騰っている煙は男がベッドで燻らしている葉巻の煙なんです。その男はそのときどんなことを思ったかというと、これはいかにも古都ウィーンだ、そしていま自分は長い旅の末にやっとその古い都へやって来たの・・・ 梶井基次郎 「ある崖上の感情」
・・・とのどかに葉巻を燻らせながら、しばらくして、資産家もまた妙ならずや。あわれこの時を失わじ。と独り笑み傾けてまた煙を吐き出しぬ。 峰の雲は相追うて飛べり。松も遠山も見えずなりぬ。雨か。鳥の声のうたたけわしき。 二 ・・・ 川上眉山 「書記官」
・・・かみなびの神より板にする杉のおもひも過ず恋のしげきに、という万葉巻九の歌によっても知られるが、後にも「琴の板」というものが杉で造られてあって、神教をこれによりて受けるべくしたものである。これらは魔法というべきではなく、神教を精誠によって仰ぐ・・・ 幸田露伴 「魔法修行者」
・・・ ドイツは葉巻が安くて煙草好きには楽土であった。二、三十片で相当なものが吸われた。馬車屋や労働者の吸うもっと安い葉巻で、吸口の方に藁切れが飛び出したようなのがあったがその方は試した事がない。 ベルリンの美術館などの入口の脇の壁面に数・・・ 寺田寅彦 「喫煙四十年」
・・・若くて禿頭の大坊主で、いつも大きな葉巻を銜えて呑気そうに反りかえって黙っていたのはプリングスハイムであった。イグナトフスキーとかいうポーランド人らしい黒髪黒髯の若い学者が、いつか何かのディスクシオンでひどく興奮して今にも相手につかみかかるか・・・ 寺田寅彦 「ベルリン大学(1909-1910)」
・・・ やがて船が長崎につくと、薄紫地の絽の長い服を着た商人らしい支那人が葉巻を啣えながら小舟に乗って父をたずねに来た。その頃長崎には汽船が横づけになるような波止場はなかった。わたくしは父を訪問しに来た支那人が帰りがけに船梯子を降りながら、サ・・・ 永井荷風 「十九の秋」
・・・むことなく反抗することなく、手錠をはめられ板木を取壊すお上の御成敗を甘受していたのだと思うと、時代の思想はいつになっても、昔に代らぬ今の世の中、先生は形ばかり西洋模倣の倶楽部やカフェーの媛炉のほとりに葉巻をくゆらし、新時代の人々と舶来の火酒・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・と丸い男は椀をうつ事をやめて、いつの間にやら葉巻を鷹揚にふかしている。 五月雨に四尺伸びたる女竹の、手水鉢の上に蔽い重なりて、余れる一二本は高く軒に逼れば、風誘うたびに戸袋をすって椽の上にもはらはらと所択ばず緑りを滴らす。「あすこに画が・・・ 夏目漱石 「一夜」
・・・ 船長は、黴菌を殺すために、――彼はそう考えた――高価な、マニラで買い込んだ許りの葉巻を、尻から脂の出るほどふかしながら、命令した。 ボースンと、ナンバンは引き取った。 フォアピークは、水火夫室の下の倉庫の、も一つ下にあった。・・・ 葉山嘉樹 「労働者の居ない船」
・・・』 すると支那人の博士が葉巻をくわえたままふんふん笑って『家が飛ばないじゃないか。』と云うと子供の助手はまるで口を尖らせて、『だって向うの三角旗や何かぱたぱた云ってます。』というんだ。博士は笑って相手にしないで壇を下りて行く・・・ 宮沢賢治 「風野又三郎」
出典:青空文庫