・・・が、その母譲りの眼の中には、洋一が予期していなかった、とは云え無意識に求めていたある表情が閃いていた。洋一は兄の表情に愉快な当惑を感じながら、口早に切れ切れな言葉を続けた。「今日は一番苦しそうだけれど、――でも兄さんが帰って来て好かった・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・そして小屋の中が真暗になった日のくれぐれに、何物にか助けを求める成人のような表情を眼に現わして、あてどもなくそこらを見廻していたが、次第次第に息が絶えてしまった。 赤坊が死んでから村医は巡査に伴れられて漸くやって来た。香奠代りの紙包を持・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・この男が少しでも動くか、その顔の表情が少しでも変るのを見逃してはならないような心持がしているのである。 罪人は諦めたような風で、大股に歩いて這入って来て眉を蹙めてあたりを見廻した。戸口で一秒時間程躊躇した。「あれだ。あれだ。」フレンチは・・・ 著:アルチバシェッフミハイル・ペトローヴィチ 訳:森鴎外 「罪人」
・・・淫売屋から出てくる自然主義者の顔と女郎屋から出てくる芸術至上主義者の顔とその表れている醜悪の表情に何らかの高下があるだろうか。すこし例は違うが、小説「放浪」に描かれたる肉霊合致の全我的活動なるものは、その論理と表象の方法が新しくなったほかに・・・ 石川啄木 「時代閉塞の現状」
・・・けげんな顔して引込むと、また窺いいたる、おその、と一所に笑い出して、二人ばたばたと行って襖際へ……声をきき知る表情にて、衝と出づる欣弥を見るや、どぎまぎして勝手へ引込む。村越。つつと出で、そこに、横を向いて立ったる白糸を一目見て・・・ 泉鏡花 「錦染滝白糸」
・・・ 緑雨の眼と唇辺に泛べる“Sneer”の表情は天下一品であった。能く見ると余り好い男振ではなかったが、この“Sneer”が髯のない細面に漲ると俄に活き活きと引立って来て、人に由ては小憎らしくも思い、気障にも見えたろうが、緑雨の千両は実に・・・ 内田魯庵 「斎藤緑雨」
・・・ と、ひどく真面目な表情で言った。それでは、ここで私を待ち伏せていたのかと、返事の仕様もなく、湯のなかでふわりふわりからだを浮かせていると、いきなり腕を掴まれた。「彼女はなんぞ僕の悪ぐち言うてましたやろ?」 案外にきつい口調だっ・・・ 織田作之助 「秋深き」
・・・いかにも永い冬と戦ってきたというような萎縮けた、粗硬な表情をしていた。「ただに冬とのみ戦ってきたのだとは言えまい」と、彼も子供の顔を見た刹那に、自分の良心が咎められる気がした。一日二日相手に遊んでいるうち、子供の智力の想ったほどにもなく発達・・・ 葛西善蔵 「贋物」
・・・彼は相手の今までの話を、そうおもしろがってもいないが、そうかと言って全然興味がなくもないといった穏やかな表情で耳を傾けていた。彼は相手に自分の意見を促されてしばらく考えていたが、「さあ……僕にはむしろ反対の気持になった経験しか憶い出せな・・・ 梶井基次郎 「ある崖上の感情」
・・・他人の顔にある表情があらわれるのを見ると、同じ表情がわれ知らず自分にあらわれる本能的傾向が人間にはある。現在それが悲哀の表情であれば、自ら悲哀を感じる。これは他人の内生を共生すること、すなわち同情である。利他主義はこの同情という心理的事実に・・・ 倉田百三 「学生と教養」
出典:青空文庫