・・・女の子には見覚えがあった。このごろ新しく雇いいれたわが家の下婢に相違なかった。名前は、記憶してなかった。 ぼんやり下婢の様を見ているうちに、むしゃくしゃして来た。「何をしているのだ。」うす汚い気さえしたのである。 女の子は、ふっ・・・ 太宰治 「古典風」
・・・その顔には、幽かに見覚えがあった。「知っている。あがらないか」私はその日、彼に対してたしかに軽薄な社交家であった。 彼は、藁草履を脱いで、常居にあがった。「久しぶりだなあ」と彼は大声で言う。「何年振りだ? いや、何十年振りだ? ・・・ 太宰治 「親友交歓」
・・・つたない手跡に見覚えもなかった。紙包みを破って見ると、まだ新しい黄木綿の袋が出て来た。中にはどんぐりか椎の実でもはいっているような触感があった。袋の口をあけてのぞいて見ると実際それくらいの大きさの何かの球根らしいものがいっぱいはいっている。・・・ 寺田寅彦 「球根」
・・・昔明治音楽界などの演奏会で見覚えのある楽人達の顔を認める事が出来たが、服装があまりにちがっているので不思議な気がするのであった。 始めに管絃の演奏があった。「春鶯囀」という大曲の一部だという「入破」、次が「胡飲酒」、三番目が朗詠の一つだ・・・ 寺田寅彦 「雑記(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
・・・殊に自分が呱々の声を上げた旧宅の門前を過ぎ、その細密い枝振りの一条一条にまでちゃんと見覚えのある植込の梢を越して屋敷の屋根を窺い見る時、私は父の名札の後に見知らぬ人の名が掲げられたばかりに、もう一足も門の中に進入る事ができなくなったのかと思・・・ 永井荷風 「伝通院」
・・・よく見覚えのある深川座の幟がたった一本淋し気に、昔の通り、横町の曲角に立っていたので、自分は道路の新しく取広げられたのをも殆んど気付かず、心は全く十年前のなつかしい昔に立返る事が出来た。 つい名を忘れてしまった。思い出せない――一条の板・・・ 永井荷風 「深川の唄」
・・・ そして須利耶さまは、たしかにその子供に見覚えがございました。最初のものは、もはや地面に達しまする。それは白い鬚の老人で、倒れて燃えながら、骨立った両手を合せ、須利耶さまを拝むようにして、切なく叫びますのには、(須利耶さま、須利耶さ・・・ 宮沢賢治 「雁の童子」
・・・そのなかから見覚えのある、大きな帽子、円い肩、ミーロがこっちへ出て来ました。「とうとう来たな。今晩は、いいお晩でございます。」 ミーロはわたくしに挨拶しました。みんなも待っていたらしく口々に云いました。わたくしどもは、そのまま広場を・・・ 宮沢賢治 「ポラーノの広場」
・・・崖の洞に祀ってある何かの小さい社に見覚えがあった。 橋を一つ渡ると、道は左手に川を眺めて進んだ。ところどころ、大きな地崩れでやっと一人歩ける小道が、右手の石垣よりに遺されている。やはりごろた石の垣だ。歩きながら、なほ子はひとりでに二三度・・・ 宮本百合子 「白い蚊帳」
・・・同時に向うからも近づく、如何にも見覚えある白い姿を見た。雄鳩はいつかの夜棲り木の上から雌を呼んだ時の通りの声で、親しげに軟かく彼女に呼びつづけた。愛のしるしに飽かず嘴で触った。たとい何だか様子の異ったものとなったにしろ、ここに雌はいた。彼は・・・ 宮本百合子 「白い翼」
出典:青空文庫