・・・が、譚は何の為か、僕の見送りには立たなかった。 江丸の長沙を発したのは確か七時か七時半だった。僕は食事をすませた後、薄暗い船室の電灯の下に僕の滞在費を計算し出した。僕の目の前には扇が一本、二尺に足りない机の外へ桃色の流蘇を垂らしていた。・・・ 芥川竜之介 「湖南の扇」
・・・ 君が横浜を出帆した日、銅鑼が鳴って、見送りに来た連中が、皆、梯子伝いに、船から波止場へおりると、僕はジョオンズといっしょになった。もっとも、さっき甲板ではちょいと姿を見かけたが、その後、君の船室へもサロンへも顔を出さなかったので、僕は・・・ 芥川竜之介 「出帆」
・・・ 私はぶるぶる震えて泣きながら、両手の指をそろえて口の中へ押こんで、それをぎゅっと歯でかみしめながら、その男がどんどん沖の方に遠ざかって行くのを見送りました。私の足がどんな所に立っているのだか、寒いのだか、暑いのだか、すこしも私には分り・・・ 有島武郎 「溺れかけた兄妹」
・・・ 厠に立った父の老いた後姿を見送りながら彼も立ち上がった。縁側に出て雨戸から外を眺めた。北海道の山の奥の夜は静かに深更へと深まっていた。大きな自然の姿が遠く彼の眼の前に拡がっていた。・・・ 有島武郎 「親子」
・・・彫刻師はその夜の中に、人知れず、暗ながら、心の光に縁側を忍んで、裏の垣根を越して、庭を出るその後姿を、立花がやがて物語った現の境の幻の道を行くがごとくに感じて、夫人は粛然として見送りながら、遥に美術家の前程を祝した、誰も知らない。 ただ・・・ 泉鏡花 「伊勢之巻」
・・・ 見送り果てず引返して、駈け戻りて枝折戸入りたる、庵のなかは暗かりき。「唯今!」 と勢よく框に踏懸け呼びたるに、答はなく、衣の気勢して、白き手をつき、肩のあたり、衣紋のあたり、乳のあたり、衝立の蔭に、つと立ちて、烏羽玉の髪のひま・・・ 泉鏡花 「清心庵」
・・・と、友人は少し笑いを含みながら、「その手つづきは後でしてやると親類の人達がなだめて、万歳の見送りをしたんやそうや。もう、その時から、少し気が触れとったらしい。」「気違いになったのだ、な?」「気違い云うたら、戦争しとる時は皆気違いや。・・・ 岩野泡鳴 「戦話」
・・・そして、それでもなお実は、吉弥がその両親を見送りに行った帰りに、立ち寄るのが本当だろうと、外出もしないで待っていたか、吉弥は来なかった。昼から来るかとの心待ちも無駄であった。その夜もとうとう見えなかった。 そのまたあくる日も、日が暮れる・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・ 彼は思わず顔を赤らめて、その人を見送りますと、「このごろ、港にはいってきた、赤い船のお客さまだよ。」と、町の女房たちが、うわさしているのをきいたのであります。 小川未明 「赤い船のお客」
・・・すると、通る人々は、みんな不思議な顔つきをして、子供を見送りました。 そこには、きれいなカフェーがありました。多くの若い女が、顔に、真っ白に白粉を塗って、唇には、真っ赤に、紅をつけていました。そこで、やはり、その女たちも、いい声で、唄を・・・ 小川未明 「あらしの前の木と鳥の会話」
出典:青空文庫