・・・ 全く、私は女の言うことも男の言うことも、てんで身を入れてきかない覚悟をきめていた。「それをきいて安心しました」 女は私の言葉をなんときいたのか、生真面目な顔で言った。私はまだこの女の微笑した顔を見ていない、とふと思った。 ・・・ 織田作之助 「秋深き」
・・・人間は何をしたってそれは各自の自由だがね、併し正を踏んで倒れると云う覚悟を忘れては、結局この社会に生存が出来なくなる……」 ………… 空行李、空葛籠、米櫃、釜、其他目ぼしい台所道具の一切を道具屋に売払って、三百に押かけられないう・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・もうすっかり覚悟しなければ成らなくなりました。ああ仕方がない、もうこの上は何でも欲しがるものを皆やりましょう、そして心残りの無いよう看護してやりましょうと思いました。 此の時分から彼は今まで食べていた毎日の食物に飽きたと言い、バターもい・・・ 梶井久 「臨終まで」
・・・相談できず、独りで二日三日商売もやめて考えた末、いよいよ明日の朝早く広島へ向けて立つに決めはしたものの餅屋の者にまるっきり黙ってゆく訳にゆかず、今宵こそ幸衛門にもお絹お常にも大略話して止めても止まらぬ覚悟を見せん、運悪く流れ弾に中るか病気に・・・ 国木田独歩 「置土産」
・・・ これが日蓮の覚悟であった。やはり彼は東洋の血と精神に育った予言者であったのだ。大衆に失望して山に帰る聖賢の清く、淋しき諦観が彼にもあったのだ。絶叫し、論争し、折伏する闘いの人日蓮をみて、彼を奥ゆかしき、寂しさと諦めとを知らぬ粗剛の性格・・・ 倉田百三 「学生と先哲」
・・・しかし、その代りとして、四年兵になるまで残しておかれるだろうとは、自他ともに覚悟をしていた。 だが、その男も、帰還者の一人として、はっきり記されてあった。 そして、残されるのは、よく働いて、使いいゝ吉田と小村の二人であった。 二・・・ 黒島伝治 「雪のシベリア」
・・・古い澪杙、ボッカ、われ舟、ヒビがらみ、シカケを失うのを覚悟の前にして、大様にそれぞれの趣向で遊びます。いずれにしても大名釣といわれるだけに、ケイズ釣は如何にも贅沢に行われたものです。 ところで釣の味はそれでいいのですが、やはり釣は根が魚・・・ 幸田露伴 「幻談」
・・・どんなに絶望しているだろうと思った老いた母さえ、すぐに「かかる成り行きについては、かねて覚悟がないでもないからおどろかない。わたくしのことは心配するな」といってきた。 死刑! わたくしには、まことに自然の成り行きである。これでよいのであ・・・ 幸徳秋水 「死刑の前」
・・・「容易に無いね――先ず一年位は遊ぶ覚悟でなけりゃあ」 家を中心にして一生の計画を立てようという人と、先ず屋の外に出てそれから何事か為ようという人と、この二人の友達はやがて公園内の茶店へ入った。涼しい風の来そうなところを択んで、腰を掛・・・ 島崎藤村 「並木」
・・・ 私は言われるままに足袋を脱いだ。 これはもういけない。蝋燭が消えたら、それまでだ。 私は覚悟しかけた。 焔は暗くなり、それから身悶えするように左右にうごいて、一瞬大きく、あかるくなり、それから、じじと音を立てて、みるみる小・・・ 太宰治 「朝」
出典:青空文庫