・・・また恋をしたいたッて、美しい鳥を誘う羽翼をもう持っておらない。と思うと、もう生きている価値がない、死んだ方が好い、死んだ方が好い、死んだ方が好い、とかれは大きな体格を運びながら考えた。 顔色が悪い。眼の濁っているのはその心の暗いことを示・・・ 田山花袋 「少女病」
・・・黒田を誘うて当もなく歩く。咲く花に人の集まる処を廻ったり殊更に淋しい墓場などを尋ね歩いたりする。黒田はこれを「浮世の匂」をかいで歩くのだと言っていた。一緒に歩いていると、見る物聞く物黒田が例の奇警な観察を下すのでつまらぬ物が生きて来る。途上・・・ 寺田寅彦 「イタリア人」
・・・ 何しろあれだけ大きな建物がなくなってしまった事とて境内は荒野のように広々として重苦しい夕風は真実無常を誘う風の如く処を得顔に勢づいて吹き廻っているように思われた。今までは本堂に遮られて見えなかった裏手の墳墓が黒焦げになったまま立ってい・・・ 永井荷風 「伝通院」
・・・屋根の裏に白い牙をむいた鎌が或は電気を誘うたのであったろうか、小屋は雷火に焼けたのである。小屋に火の附いた時はもう太十は何等の苦痛もなく死んで居た筈である。たった一人野らに居た一剋者の太十はこうして僅かの間に彼の精神力は消耗した。更に大自然・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・ 五月雨に四尺伸びたる女竹の、手水鉢の上に蔽い重なりて、余れる一二本は高く軒に逼れば、風誘うたびに戸袋をすって椽の上にもはらはらと所択ばず緑りを滴らす。「あすこに画がある」と葉巻の煙をぷっとそなたへ吹きやる。 床柱に懸けたる払子の先・・・ 夏目漱石 「一夜」
・・・試みにこれを歴史に徴するに、義気凜然として威武も屈する能わず富貴も誘う能わず、自ら私権を保護して鉄石の如くなる士人は、その家に居るや必ず優しくして情に厚き人物ならざるはなし。即ち戸外の義士は家内の好主人たるの実を見るべし。いかなる場合にも放・・・ 福沢諭吉 「日本男子論」
・・・そしてとどうやらこっちを見ながらわびるように誘うようになまめかしく呟いた。そして足音もなく土間へおりて戸をあけた。外ではすぐしずまった。女はいろいろ細い声で訴えるようにしていた。男は酔っていないような声でみじかく何か訊きかえしたりしていた。・・・ 宮沢賢治 「泉ある家」
・・・ この間の消息を詳細に眺めると、やはりそこには無量の感慨を誘うものが横わっている。作業場の設置者、技術指導者は、きわめて公平といえばいえる率直さで娘たちが立派に男の熟練工なみどころか、外国の技術者の五倍もの能力をもっていることを承認して・・・ 宮本百合子 「新しい婦人の職場と任務」
・・・男は強いて誘うでもなく、独語のように言ったのである。 子供の母はつくづく聞いていたが、世間の掟にそむいてまでも人を救おうというありがたい志に感ぜずにはいられなかった。そこでこう言った。「承われば殊勝なお心がけと存じます。貸すなという掟の・・・ 森鴎外 「山椒大夫」
・・・嘲罵は嘲罵を誘う。メフィストもまたメフィストを誘い出すだろう。 私はまた事を誤ったのだろうか。七 私は人の長所を見たいと思っている。そうしてなるべく多くの人に愛を感じたいと思っている。しかし私には思うほどにそれができない・・・ 和辻哲郎 「転向」
出典:青空文庫