・・・なるほど民子は私にそう云われて見れば自分の身を諦める外はない訣だ。どうしてあんな酷たらしいことを云ったのだろう。ああ可哀相な事をしてしまった。全く私が悪党を云うた為に民子は死んだ。お前はネ、明朝は夜が明けたら直ぐに往ってよオく民子の墓に参っ・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
・・・ おとよは独身になって、省作は妻ができた。諦めるとことばには言うても、ことばのとおりに心はならない。ならないのがあたりまえである。浮気の恋ならば知らぬこと、真底から思いあった間柄が理屈で諦められるはずがない。たやすく諦めるくらいならば恋・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
・・・遅かれ早かれ一度はこういう時期が来るんでしょうからね、まあ諦めるほかないでしょうよ」と、こういた場合にもあまり狼狽した様子を見せない弟は、こう慰めるように言って、今度は行李を置いてFと二人で出て行った。 が翌朝十時ごろ私は寝床の中で弟か・・・ 葛西善蔵 「父の出郷」
・・・という細君の言葉は差当って理の当然なので、主人は落胆したという調子で、「アア諦めるよりほか仕方が無いかナア。アアアア、物の命数には限りがあるものだナア。」と悵然として嘆じた。 細君はいつにない主人が余りの未練さをやや訝りなが・・・ 幸田露伴 「太郎坊」
・・・私は、それを思った時、はっきりあの人を諦めることが出来ました。そうして、あんな気取り屋の坊ちゃんを、これまで一途に愛して来た私自身の愚かさをも、容易に笑うことが出来ました。やがてあの人は宮に集る大群の民を前にして、これまで述べた言葉のうちで・・・ 太宰治 「駈込み訴え」
・・・にがく笑って、これが世の中、と呟いて、きれいさっぱり諦める。それこそは、世の中。 参唱 同行二人 巡礼しようと、なんど真剣に考えたか知れぬ。ひとり旅して、菅笠には、同行二人と細くしたためて、私と、それからもう一人、道・・・ 太宰治 「二十世紀旗手」
・・・四 諦めるにつけ悟るにつけ、さすがはまだ凡夫の身の悲しさに、珍々先生は昨日と過ぎし青春の夢を思うともなく思い返す。ふとしたことから、こうして囲って置くお妾の身の上や、馴初めのむかしを繰返して考える。お妾は無論芸者であった。仲・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・しかし何事も運命と諦めるより外はない。運命は外から働くばかりでなく内からも働く。我々の過失の背後には、不可思議の力が支配しているようである、後悔の念の起るのは自己の力を信じ過ぎるからである。我々はかかる場合において、深く己の無力なるを知り、・・・ 西田幾多郎 「我が子の死」
・・・』 と、眼には涙がほろほろと溢れてお居ででしたが、『お前さんが戦死さッしゃッても、日本中の人の為だと思って私諦めるだからね、お前さんも其気で……ええかね。』と、赤さんを抱いてお居での方は袖に顔を押当てお了いでした。 涙を拭いたのは、・・・ 広津柳浪 「昇降場」
・・・とだけあって、配られたのが骨ばかりだったにしてもそれはその兵士の不運なのだし、ましてそれを噛む顎を弾丸にやられていたとすれば、それこそその兵の重なる不運と諦めるしかない状態なのであった。病院へのあらゆる必需品を調達するのは全部フロレンスの仕・・・ 宮本百合子 「フロレンス・ナイチンゲールの生涯」
出典:青空文庫