・・・なにか沙漠の空に見える蜃気楼の無気味さを漂わせたまま。……一五 それからかれこれ一週間の後、僕はふと医者のチャックに珍しい話を聞きました。というのはあのトックの家に幽霊の出るという話なのです。そのころにはもう雌の河童はどこか・・・ 芥川竜之介 「河童」
・・・その跡には、―― 日本の Bacchanalia は、呆気にとられたオルガンティノの前へ、蜃気楼のように漂って来た。彼は赤い篝の火影に、古代の服装をした日本人たちが、互いに酒を酌み交しながら、車座をつくっているのを見た。そのまん中には女・・・ 芥川竜之介 「神神の微笑」
・・・しかし美しい蜃気楼は砂漠の天にのみ生ずるものである。百般の人事に幻滅した彼等も大抵芸術には幻滅していない。いや、芸術と云いさえすれば、常人の知らない金色の夢は忽ち空中に出現するのである。彼等も実は思いの外、幸福な瞬間を持たぬ訣ではない。・・・ 芥川竜之介 「侏儒の言葉」
・・・同時に大沙漠の空想などは蜃気楼のように消滅した。今はただ泥だらけの荷車が一台、寂しい彼の心の中におのずから車輪をまわしている。…… 保吉は未だにこの時受けた、大きい教訓を服膺している。三十年来考えて見ても、何一つ碌にわからないのはむしろ・・・ 芥川竜之介 「少年」
一 或秋の午頃、僕は東京から遊びに来た大学生のK君と一しょに蜃気楼を見に出かけて行った。鵠沼の海岸に蜃気楼の見えることは誰でももう知っているであろう。現に僕の家の女中などは逆まに舟の映ったのを見、「この間の新聞・・・ 芥川竜之介 「蜃気楼」
・・・ 花の蜃気楼だ、海市である……雲井桜と、その霞を称えて、人待石に、氈を敷き、割籠を開いて、町から、特に見物が出るくらい。 けれども人々は、ただ雲を掴んで影を視めるばかりなのを……謹三は一人その花吹く天――雲井桜を知っていた。 夢・・・ 泉鏡花 「瓜の涙」
・・・ 処へ、かの魚津の沖の名物としてありまする、蜃気楼の中の小屋のようなのが一軒、月夜に灯も見えず、前途に朦朧として顕れました。 小宮山は三蔵法師を攫われた悟空という格で、きょろきょろと四辺をみまわしておりましたが、頂は遠く、四辺は曠野・・・ 泉鏡花 「湯女の魂」
・・・は化す千年碧なり 九外屍は留む三日香ばし 此老の忠心きようじつの如し 阿誰貞節凜として秋霜 也た知る泉下遺憾無きを ひつぎを舁ぐの孤児戦場に趁く 蟇田素藤南面孤を称す是れ盗魁 匹として蜃気楼堂を吐くが如し 百年の艸木腥丘を余・・・ 内田魯庵 「八犬伝談余」
・・・それは、蜃気楼なのであります。「おばあさん、海の上に、不思議な景色が見えるといいますから、いってみましょう……。」と、少女は、おばあさんにいいました。「ああ、いいお天気だから、おまえだけいってみておいでなさい。私は年寄りだから、歩く・・・ 小川未明 「海からきた使い」
・・・ すばしこく枝移りする小鳥のような不定さは私をいらだたせた。蜃気楼のようなはかなさは私を切なくした。そして深祕はだんだん深まってゆくのだった。私に課せられている暗鬱な周囲のなかで、やがてそれは幻聴のように鳴りはじめた。束の間の閃光が私の・・・ 梶井基次郎 「筧の話」
出典:青空文庫