・・・久しぶりに、――しかし小さい墓は勿論、墓の上に枝を伸ばした一株の赤松も変らなかった。「点鬼簿」に加えた三人は皆この谷中の墓地の隅に、――しかも同じ石塔の下に彼等の骨を埋めている。僕はこの墓の下へ静かに僕の母の柩が下された時のことを思い出・・・ 芥川竜之介 「点鬼簿」
・・・黒石でつつまれた高みの上に、りっぱな赤松が四、五本森をなして、黄葉した櫟がほどよくそれにまじわっている。東側は神社と寺との木立ちにつづいて冬のはじめとはいえ、色づいた木の葉が散らずにあるので、いっそう景色がひきたって見える。「じいさん、・・・ 伊藤左千夫 「河口湖」
・・・まことにその名空しからで、流れの下にあたりて長々と川中へ突き出でたる巌のさま、彼の普賢菩薩の乗りもののおもかげに似たるが、その上には美わしき赤松ばらばらと簇立ち生いて、中に聖天尊の宮居神さびて見えさせ給える、絵を見るごとくおもしろし。川は巌・・・ 幸田露伴 「知々夫紀行」
・・・落葉松、白樺、厚朴、かえでなどの代わりに赤松、黒松、榛、欅、桐などが幅をきかしている。そうして自由に放恣な太古のままの秋草の荒野の代わりに、一々土地台帳の区画に縛られた水稲、黍、甘藷、桑などの田畑が、単調で眠たい田園行進曲のメロディーを奏し・・・ 寺田寅彦 「軽井沢」
僕は武蔵野の片隅に住んでいる。東京へ出るたびに、青山方角へ往くとすれば、必ず世田ヶ谷を通る。僕の家から約一里程行くと、街道の南手に赤松のばらばらと生えたところが見える。これは豪徳寺――井伊掃部頭直弼の墓で名高い寺である。豪・・・ 徳冨蘆花 「謀叛論(草稿)」
・・・――このうすよごれた町からほとんど出たことのない三吉は、東京を知らないけれど、それまでの東京からはまだ大学生の田門武雄や、卒業して間がない三輪寿蔵や、赤松克馬や新人会本部の連中がやってきた。彼らはサンジカリズムないしアナルコサンジカリズムの・・・ 徳永直 「白い道」
・・・ 山門の前五六間の所には、大きな赤松があって、その幹が斜めに山門の甍を隠して、遠い青空まで伸びている。松の緑と朱塗の門が互いに照り合ってみごとに見える。その上松の位地が好い。門の左の端を眼障にならないように、斜に切って行って、上になるほ・・・ 夏目漱石 「夢十夜」
・・・ 研ぎ出したような月は中庭の赤松の梢を屋根から廊下へ投げている。築山の上り口の鳥居の上にも、山の上の小さな弁天の社の屋根にも、霜が白く見える。風はそよとも吹かぬが、しみるような寒気が足の爪先から全身を凍らするようで、覚えず胴戦いが出るほ・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・石英粗面岩の凝灰岩、大へん地味が悪いのです。赤松とちいさな雑木しか生えていないでしょう。ところがそのへん、麓の緩い傾斜のところには青い立派な闊葉樹が一杯生えているでしょう。あすこは古い沖積扇です。運ばれてきたのです。割合肥沃な土壌を作ってい・・・ 宮沢賢治 「台川」
・・・ 気がつくと、其処とは反対の赤松の裏にも白山羊が出て居る。夜は十二時を過ぎた。 令子は、そっと、動物たちを驚ろかさないように雨戸を鎖した。 朝になったが、萩の葉の裏に水銀のような月の光が残って居る。 令子は海面に砕ける月・・・ 宮本百合子 「黒い驢馬と白い山羊」
出典:青空文庫