・・・あすこをもっと行くと諏訪の森の近くに越後様という殿様のお邸があった。あのお邸の中に桑木厳翼さんの阿母さんのお里があって鈴木とかいった。その鈴木の家の息子がおりおり僕の家へ遊びに来たことがあった。 僕の家の裏には大きな棗の木が五六本もあっ・・・ 夏目漱石 「僕の昔」
・・・「国は何処?」 彼女は、優しく前髪を傾けて答えた。「越後でございます」「東京には、其じゃあ、親類でもあるの?」 娘は、唇をすぼめ、悩ましそうに一寸肩をゆすった。「――親戚はございませんですが……」 黒目がちの瞳で・・・ 宮本百合子 「或る日」
・・・なぞとからかわれます。越後の米搗きはお茶を飲み飲み御飯をたべるのだそうです。としてみるとわたくしの嗜好というものなぞは、レファインされない嗜好なのでしょう。 果物よりも甘いものの方がずうっと好きです。仕事に疲れた時なぞ、甘いものでさえあ・・・ 宮本百合子 「身辺打明けの記」
・・・この廃園は昭和に入ってから、市島という越後の大地主に買いとられた。からたちの垣はもうすたれて、いかめしい非常に高いコンクリート塀がこの一区画をしきることになった。きょう、塀そとを通る私たちに見えるものは、昔ながらの丸善工場のインクの匂う門の・・・ 宮本百合子 「田端の汽車そのほか」
・・・ 私はいつにない、華な水色のような心持で越後獅子のうたをうたった。長い振の着物を着て黒い髪を桃割にでも結って居る娘のような気持で…… 見ている内にいかにも夕暮らしい日光になって来た。いつの間にか前の川、鉄道の線一つを海からはなれて居・・・ 宮本百合子 「つぼみ」
・・・ 此の婆が、生れは越後のかなり良い処で片附てからの不幸つづきで、こんな淋しい村に、頼りない生活をして居るのだと云う事をきいて居るので、その荒びた声にも日にやけた頸筋のあたりにも、どことなし、昔の面影が残って居る様で、若し幸運ばかり続・・・ 宮本百合子 「農村」
・・・そこへ佐藤という、色の白い、髪を長くしている、越後生れの書生が来て花房に云った。「老先生が一寸お出下さるようにと仰ゃいますが」「そうか」 と云って、花房は直ぐに書生と一しょに広間に出た。 春慶塗の、楕円形をしている卓の向うに・・・ 森鴎外 「カズイスチカ」
・・・信濃国では、上諏訪から和田峠を越えて、上田の善光寺に参った。越後国では、高田を三日、今町を二日、柏崎、長岡を一日、三条、新潟を四日で廻った。そこから加賀街道に転じて、越中国に入って、富山に三日いた。この辺は凶年の影響を蒙ることが甚しくて、一・・・ 森鴎外 「護持院原の敵討」
越後の春日を経て今津へ出る道を、珍らしい旅人の一群れが歩いている。母は三十歳を踰えたばかりの女で、二人の子供を連れている。姉は十四、弟は十二である。それに四十ぐらいの女中が一人ついて、くたびれた同胞二人を、「もうじきにお宿・・・ 森鴎外 「山椒大夫」
・・・ここは山のかいにて、公道を距ること遠ければ、人げすくなく、東京の客などは絶て見えず、僅に越後などより来りて浴する病人あるのみ。宿とすべき家を問うにふじえやというが善しという。まことは藤井屋なり。主人驚きて簷端傾きたる家の一間払いて居らす。家・・・ 森鴎外 「みちの記」
出典:青空文庫