・・・墓地の松や生垣の中には、辛夷の花が白らんでいる、天気の好い日曜の午過ぎだった。母は小さな墓の前に来ると、これがお父さんの御墓だと教えた。が、彼はその前に立って、ちょいと御時宜をしただけだった。「それでもう好いの?」 母は水を手向けな・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・が、辛夷は似ている癖に、きっと南へ花を向けている。保吉は巻煙草に火をつけながら、木蘭の個性を祝福した。そこへ石を落したように、鶺鴒が一羽舞い下って来た。鶺鴒も彼には疎遠ではない。あの小さい尻尾を振るのは彼を案内する信号である。「こっち!・・・ 芥川竜之介 「保吉の手帳から」
・・・何時の間に花が咲いて散ったのか、天気になって見ると林の間にある山桜も、辛夷も青々とした広葉になっていた。蒸風呂のような気持ちの悪い暑さが襲って来て、畑の中の雑草は作物を乗りこえて葎のように延びた。雨のため傷められたに相異ないと、長雨のただ一・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・その小さな握拳が僕の眼の前でひょこりひょこりと動いた。 その中に婆やが畳の上に握っていた碁石をばらりと撒くと、泣きじゃくりをしていた八っちゃんは急に泣きやんで、婆やの膝からすべり下りてそれをおもちゃにし始めた。婆やはそれを見ると、「・・・ 有島武郎 「碁石を呑んだ八っちゃん」
・・・ 衝と手を伸して、立花が握りしめた左の拳を解くがごとくに手を添えつつ、「もしもの事がありますと、あの方もお可哀そうに、もう活きてはおられません。あなたを慕って下さるなら、私も御恩がある。そういうあなたが御料簡なら、私が身を棄ててあげ・・・ 泉鏡花 「伊勢之巻」
・・・さしたての潮が澄んでいるから差し覗くとよく分かった――幼児の拳ほどで、ふわふわと泡を束ねた形。取り留めのなさは、ちぎれ雲が大空から影を落としたか、と視められ、ぬぺりとして、ふうわり軽い。全体が薄樺で、黄色い斑がむらむらして、流れのままに出た・・・ 泉鏡花 「海の使者」
・・・――若し、この善良な民衆の生活を、脅威するものがあったならば、また破壊するものがあったならばという偉大な握り固められた拳がある。斯くして人道主義の最も敬虔にして勇敢な戦士の赤誠を心ある人々の胸から胸へ伝えている。 こうした涙ぐましい、謙・・・ 小川未明 「民衆芸術の精神」
・・・ かつて酒量少なく言葉少なかりし十蔵は海と空との世界に呼吸する一年余りにてよく飲みよく語り高く笑い拳もて卓をたたき鼻歌うたいつつ足尖もて拍子取る漢子と変わりぬ。かれが貴嬢をば盗み去ってこの船に連れ来たらばやと叫びし時は二郎もわれも耳をふ・・・ 国木田独歩 「おとずれ」
・・・火を背になし、沖の方を前にして立ち体をそらせ、両の拳もて腰をたたきたり。仰ぎ見る大ぞら、晴に晴れて、黒澄み、星河霜をつつみて、遠く伊豆の岬角に垂れたり。 身うち煖かくなりまさりゆき、ひじたる衣の裾も袖も乾きぬ。ああこの火、誰が燃やしつる・・・ 国木田独歩 「たき火」
・・・全世界に於て、プロレタリアートが、両手を合わすことをやめて、それを拳に握り締めだした。そういう頃だった。 M――鉱業株式会社のO鉱山にもストライキが勃発した。 その頃から、資本家は、労働者を、牛のように、「ボ」とか、「アセ」「ヒカエ・・・ 黒島伝治 「土鼠と落盤」
出典:青空文庫