・・・ 彼女は、丁寧に辞宜をした。「有難うございます」 そして、下げた頭をそのまま後じさりに扉をしめ、がちゃりと把手を元に戻して立ち去った。 部屋は再び静になった。 彼は始めてのうのうとした心持になった。「ああああ、さてこれで・・・ 宮本百合子 「或る日」
・・・ まるで教室にでもいるように、一斉に立って迎えた中を、辞儀と愛素よい笑とを振撒きながら入って来られる様子を見、自分の心は、悲憤ともいうべき激情に動かされた。 あの平気な顔、自分の仕たことに一つの間違いもなかったのだと云いたげな風。私・・・ 宮本百合子 「追想」
・・・衝立の陰から、前菜の皿を持って給仕が現れた。辞儀をする。腸詰やハムなどの皿を出す。若いアメリカ人はそれを一瞥したが、フォークを取り上げようともせず、いきなり体じゅうで大きな大きな、涙の滲み出すように大きな伸びをした。「――ああ、ねぶたい・・・ 宮本百合子 「長崎の印象」
・・・やがて、片脚をひょこりと後に引く辞儀をして土間から出て行く迄、うめは動物的な好奇心とぼんやりした敵意とを感じながら見守った。「どうでした?」 マリーナは答えのかわりに、両腕を開いて見せた。当にしていた注文が流れたのであった。彼女は、・・・ 宮本百合子 「街」
・・・そして二人の子供に辞儀をせいと言った。 二人の子供は奴頭の詞が耳に入らぬらしく、ただ目をみはって大夫を見ている。今年六十歳になる大夫の、朱を塗ったような顔は、額が広くあごが張って、髪も鬚も銀色に光っている。子供らは恐ろしいよりは不思議が・・・ 森鴎外 「山椒大夫」
・・・ 蔀君が僕をこの男の前に連れて行って、僕の名を言うと、この男は僕を一寸見て、黙って丁寧に辞儀をしただけであった。蔀君はそこらにいた誰やらと話をし出したので、僕はひとり縁側の方へ出て、いつの間にか薄い雲の掛かった、暮方の空を見ながら、今見・・・ 森鴎外 「百物語」
出典:青空文庫