・・・ こうも言って、彼が他人の感情に鈍感で、他人の恩恵を一図に善意にのみ受取っている迂遠さを冷笑した。「ばか正直でずうずうしくなくてはできないことだ」細君は良人の性質をこうも判断した。「ばか言え、お前なぞに何が解る……」彼は平気を装って・・・ 葛西善蔵 「贋物」
・・・書記官と聞きたる綱雄は、浮世の波に漂わさるるこのあわれなる奴と見下し、去年哲学の業を卒えたる学士と聞きたる辰弥は、迂遠極まる空理の中に一生を葬る馬鹿者かとひそかに冷笑う。善平はさらに罪もなげに、定めてともに尊敬し合いたることと、独りほくほく・・・ 川上眉山 「書記官」
・・・ 四 社会運動と倫理学 青年層にはまた倫理学を迂遠でありとし、象牙の塔に閉じこもって、現実の世相を知らないものの机上の空論であるとしてかえり見ない向きもある。しかし街頭の実践運動家といえども倫理学的な指導原理を持ち、・・・ 倉田百三 「学生と教養」
・・・上州の新町にて汽車を下り、藤岡より鬼石にかかり、渡良瀬川を渡りて秩父に入るの一路もまた小径にあらざれど、東京よりせんにはあまりに迂遠かるべし。我野、川越、熊谷、深谷、本庄、新町以上合せて六路の中、熊谷よりする路こそ大方は荒川に沿いたれば、我・・・ 幸田露伴 「知々夫紀行」
・・・五次方程式が代数的に解けるものだか、どうだか、発散級数の和が、有ろうと無かろうと、今は、そんな迂遠な事をこね廻している時じゃないって、誰かに言われているような気がするのだ。個人の事情を捨てろって、こないだも、上級の生徒に言われたよ。でも、そ・・・ 太宰治 「乞食学生」
・・・ 末広君の学術方面の業績は多数にあって到底ここで詳しく紹介することは出来ないし、またそれは工学方面の事に迂遠な筆者の任でもないが、手近な主だったものだけを若干列挙してみると次のようなものがある。 平板に円孔を穿ったものの伸長変形に関・・・ 寺田寅彦 「工学博士末広恭二君」
・・・そういう時に世人はよく理論と実際という常套語を持出して科学者の迂遠を冷笑するのが例である。世俗人情に関した理論などはいざ知らず、物理学上の方則は事実を煎じつめて得たもので嘘のあるはずはない。もし上記のような場合があればそれは理論の適用を誤っ・・・ 寺田寅彦 「物理学の応用について」
・・・らず、自然に化して俗を離るるの捷径ありや、こたえて曰く、詩を語るべし、子もとより詩を能くす、他に求むべからず、波疑って敢えて問う、それ詩と俳諧といささかその致を異にす、さるを俳諧を捨てて詩を語れと云う迂遠なるにあらずや、答えて曰く画の俗を去・・・ 正岡子規 「俳人蕪村」
・・・ 煙草を出すところから、火をつけ終るまで、悠くりした心持で見て居た自分は、突然そう云われた刹那、火をつけたばかりの煙草をどうするのだろう、と云う疑問を感じた。迂遠な私は、落付いて一休みして行く積りなのだと思って居たのであった。 面喰・・・ 宮本百合子 「或日」
・・・そして、この迂遠にして古い大道を行き貫くためには、日本の作家には男にしろ女にしろ特別にたゆみない智慧と堅忍と骨惜しみなさが求められているとも思う。日本にしかない種々の条件は日々の現実の中で常に必しも芸術をのばすものとしてばかりはないからであ・・・ 宮本百合子 「人生の共感」
出典:青空文庫