・・・と云う声がして障子がすうと明くと、露子が温かい春のような顔をして余を迎える。「あなた来ていたのですか」「ええ、お帰りになってから、考えたら何だか様子が変だったから、すぐ車で来て見たの、そうして昨夕の事を、みんな婆やから聞いてよ」と婆・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・のあいだひとりでしんぼうするつもりでいたのだという弁解をしたうえ、最初の約束によれば、ことしの暮れには月給が上がって東京へ帰れるはずだから、その時は先さえ承知なら、どんな小さな家でも構えて、お静さんを迎える考えだと話した。もし事が約束どおり・・・ 夏目漱石 「手紙」
・・・音信も出来ないはずの音信が来て、初めから終いまで自分を思ッてくれることが書いてあッて、必ずお前を迎えるようにするからと、いつもの平田の書振りそのままの文字が一字一字読み下されるように見えて来る。かと思うと、自分はいつか岡山へ行ッていて、思ッ・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・ずうっと積まれた黒い枕木の向こうに、あの立派な本線のシグナル柱が、今はるかの南から、かがやく白けむりをあげてやって来る列車を迎えるために、その上の硬い腕を下げたところでした。「お早う今朝は暖かですね」本線のシグナル柱は、キチンと兵隊のよ・・・ 宮沢賢治 「シグナルとシグナレス」
・・・わたくしは大学のすぐ近くのホテルからの客を迎える自動車へほかの五六人といっしょに乗りました。採って来たたくさんの標本をもってその巨きな建物の間を自動車で走るとき、わたくしはまるで凱旋の将軍のような気がしました。ところがホテルへ着いて見ると、・・・ 宮沢賢治 「ポラーノの広場」
・・・ 今日の生産拡充の要求は、これまでならばオフィス・ガールになったであろう若い婦人たちを生産面での活動に迎えると同時に、もとならば、紡績工場へ年期の前借で売られて行った村の娘たちを、機械工業に吸収して「旬日ならずして熟練工化せんとする」方・・・ 宮本百合子 「新しい婦人の職場と任務」
・・・ ずっと歩いて行って見たら、空地に向った高いところに、満州国からの貴賓を迎えるため赤や緑で装飾された拡声機が据えつけてあって、そこから「年齢十六歳前後、住む込みで月給七円、住みこみで月給七円」と夕空に響いているのであった。 私はパパ・・・ 宮本百合子 「或る心持よい夕方」
・・・今度はいずれ江戸に居所がきまったら、お佐代さんをも呼び迎えるという約束をした。藩の役をやめて、塾を開いて人に教える決心をしていたのである。 このころ仲平の学殖はようやく世間に認められて、親友にも塩谷宕陰のような立派な人が出来た。二人一し・・・ 森鴎外 「安井夫人」
・・・むしろそれがきわめて単純にまた明白に、自分の運命に対する愛と反撥とを示してくれたゆえをもって、いくらかの感謝の内にこの経験を迎える事ができた。そうしてこの単純な鏡に自分の生活のさまざまの相をうつしてみた。たとえば時間の代わりに自分の努力を。・・・ 和辻哲郎 「停車場で感じたこと」
・・・私は心からの涙に浸された先生の死のあとにそれとは相反な惨ましい死を迎えるはずであった。しかし先生の死の光景は私を興奮させた。私は過激な言葉をもって反対者を責め家族の苦しみを冒して、とうとう今日の正午に瀕死の病人を包みくるんだ幾重かの嘘を切っ・・・ 和辻哲郎 「夏目先生の追憶」
出典:青空文庫