・・・「もう大慌てで逃げるんですもの。しとの顔も見ないで……」 しとの顔で行一は笑った。信子はよくそういった話で単調な生活を飾った。行一はそんな信子を、貧乏する資格があると思った。信子は身籠った。 二 青空が広く、・・・ 梶井基次郎 「雪後」
・・・『わたしは先へ帰るよ』と吉次は早々陸へ上がる後ろよりそんならわたしたちも上がる待っていてと呼びかけられ、待つはずの吉次、敵にでも追われて逃げるような心持ちになり、衣服を着るさえあわただしく、お絹お常の首のみ水より現われて白銀の波をかき分・・・ 国木田独歩 「置土産」
・・・うであるが、元が崎であるから山も谷も海にかぎられていて鹿とてもさまで自由自在に逃げまわることはできない、また人里の方へは、すっかり、高い壁が石で築いてあって畑の荒らされないようにしてあるゆえ、その方へ逃げることもできない、さらにまた鹿の通う・・・ 国木田独歩 「鹿狩り」
・・・「逃げるな!」 ワーシカは、すぐ折敷をして、銃をかまえた。命令をきかず、逃げだす奴は打ってもいいことになっているのだ。 何か、橇の上から支那語の罵る声がきこえた。ワーシカは引鉄を引いた。手ごたえがあった。ウーンと唸る声がした。同・・・ 黒島伝治 「国境」
・・・だが、こちらの山の傾斜面には、民屋もなにもなく、逃げる道は開かれていると思っていたのに、すぐそこに、六七軒の民屋が雪の下にかくれて控えていた。それらが露西亜人の住家になっているということは、疑う余地がなかった。 山の上の露西亜人は、散り・・・ 黒島伝治 「雪のシベリア」
・・・られた、こん畜生こん畜生と百ばかりも怒鳴られて、香魚や山やまめは釣れないにしても雑魚位釣れない奴があるものか、大方遊んでばかりいやがったのだろう、この食い潰し野郎めッてえんでもって、釣竿を引奪られて、逃げるところを斜に打たれたんだ。切られた・・・ 幸田露伴 「雁坂越」
・・・恐しく成って、逃げるように高瀬は妻子の方へ引返して行った。「父さん」 と呼ぶ子供を見つけて、高瀬は自分の家の前の垣根のあたりで鞠子と一緒に成った。「鞠ちゃん、吾家へ行こう」 と慰撫めるように言いながら、高瀬は子供を連れて・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・ずいぶん高いのには、おどろきました。逃げるようにして花屋から躍り出て、それから、円タク拾って、お宅へ、まっしぐら。郊外の博士のお宅には、電燈が、あかあかと灯って居ります。たのしいわが家。いつも、あたたかく、博士をいたわり、すべてが、うまくい・・・ 太宰治 「愛と美について」
・・・記者たちは、興覚め顔に、あいつどこへ行きやがったんだろう、そろそろおれたちも帰ろうか、など帰り支度をはじめ、私は、お待ち下さい、先生はいつもあの手で逃げるのです、お勘定はあなたたちから戴きます、と申します。おとなしく皆で出し合って支払って帰・・・ 太宰治 「ヴィヨンの妻」
・・・つかまえようとするとついと逃げる。めだかのほうは数千年来人間におどかされて来たが、みずすましのほうは昔から人間に無視されて来たせいではないかと思われる。 蚊ぐらいの大きさのみずすましの子供が百匹以上も群れていたのが、わずか数日の間にもう・・・ 寺田寅彦 「沓掛より」
出典:青空文庫