・・・殊にその日は博文館との掛合で、いつもより人の出入の多そうに思われる折とて、何はさて置きお民の姿を玄関先から隠したいばかりに、僕はお民を一室に通すや否や、すぐにその来意を問うとお民は長い袂をすくい上げるように膝の上に載せ、袋の底から物をたぐり・・・ 永井荷風 「申訳」
・・・乗る馬の息の、闇押し分けて白く立ち上るを、いやがうえに鞭って長き路を一散に馳け通す。黒きもののそれかとも見ゆる影が、二丁ばかり先に現われたる時、われは肺を逆しまにしてランスロットと呼ぶ。黒きものは聞かざる真似して行く。幽かに聞えたるは轡の音・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・交えねば自身は無論の事、二世かけて誓える女性をすら通す事は出来ぬ。千四百四十九年にバーガンデの私生子と称する豪のものがラ・ベル・ジャルダンと云える路を首尾よく三十日間守り終せたるは今に人の口碑に存する逸話である。三十日の間私生子と起居を共に・・・ 夏目漱石 「幻影の盾」
・・・如何なる用あり共、若男に文など通すべからず。 若き時は夫の親類友達等に打解けて語る可らず、如何なる必要あるも若き男に文通す可らずとは、嫌疑を避けるの意ならんけれども、婦人の心高尚ならんには形式上の嫌疑は恐るゝに足らず。我輩は斯る・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・ それから谷の深い処には細かなうすぐろい灌木がぎっしり生えて光を通すことさえも慳貪そうに見えました。 それでも諒安は次から次とそのひどい刻みをひとりわたって行きました。 何べんも何べんも霧がふっと明るくなりまたうすくらくなりまし・・・ 宮沢賢治 「マグノリアの木」
・・・しらんかおをして居る女のよこがおを見ながらソッとにぎりしめるとひやっこいするどい頭の髄まですき通す様な痛さがあたえられた。男はハッと手をひいて一足わきによって女を見た。女のうす笑をする歯は青いほど白い。 男の頭の中にはさっき見せられた短・・・ 宮本百合子 「お女郎蜘蛛」
・・・ごく原始的な表現で、例えばより工合よく体にかける毛皮を縫い合わせたいという気持がいつもあって、或るとき或る人間が先の尖った石か貝の片の一方に糸を通す穴をこしらえて針を発明した。コフマンは、女性に名誉を与えて、そうして人類の生活に初めて針をも・・・ 宮本百合子 「家庭創造の情熱」
・・・廊下の横手には、お客を通す八畳の間が両側に二つずつ並んでいてそのはずれの処と便所との間が、右の方は女竹が二三十本立っている下に、小さい石燈籠の据えてある小庭になっていて、左の方に茶室賽いの四畳半があるのである。 いつも夜なかに小用に行く・・・ 森鴎外 「心中」
・・・はいってみると、二人の客を通すには、ちと大きすぎるサロンである。三所に小さい卓がおいてあって、どれをも四つ五つずつ椅子が取り巻いている。東の右の窓の下にソファもある。そのそばには、高さ三尺ばかりの葡萄に、暖室で大きい実をならせた盆栽がすえて・・・ 森鴎外 「普請中」
・・・病気に罹った以上は誰でも最後まで苦しみ通すのである。耐忍するもしないもない。しかも我々は病苦に堪え得る人と堪え得ぬ人とを区別する。同じ病苦を受けるにもそれほど異なった二つの態度があるからである。「しかり」と「否」と。受ける態度と逃げる態・・・ 和辻哲郎 「ベエトォフェンの面」
出典:青空文庫