・・・しかし今になって考えてみると、かなり数奇の生涯を体験した政客であり同時に南画家であり漢詩人であった義兄春田居士がこの芭蕉の句を酔いに乗じて詠嘆していたのはあながちに子供らを笑わせるだけの目的ではなかったであろうという気もするのである。そうし・・・ 寺田寅彦 「思い出草」
・・・これも今しがた飲んだ一杯のコーヒーの酔いの効果であるかもしれない。 寺田寅彦 「コーヒー哲学序説」
・・・「贈りまつれる薔薇の香に酔いて」とのみにて男は高き窓より表の方を見やる。折からの五月である。館を繞りて緩く逝く江に千本の柳が明かに影をひたして、空に崩るる雲の峰さえ水の底に流れ込む。動くとも見えぬ白帆に、人あらば節面白き舟歌も興がろう。・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・例を挙げると、いくらもあるが、丸橋忠弥とかいう男が、酒に酔いながら、濠の中へ石を抛げて、水の深浅を測るところが、いかにも大事件であるごとく、またいかにも豪そうな態度で、またいかにも天下の智者でなくっちゃ、こんな真似はできないぞと云わぬばかり・・・ 夏目漱石 「明治座の所感を虚子君に問れて」
・・・ 鳶の頭と店の者とが八九人、今祝めて出て行ッたばかりのところで、小万を始め此糸初紫初緑名山千鳥などいずれも七八分の酔いを催し、新造のお梅まで人と汁粉とに酔ッて、頬から耳朶を真赤にしていた。 次の間にいたお梅が、「あれ危ない。吉里さん・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・ ただにこれを一掃するのみならず、順良の極度より詭激の極度に移るその有様は、かの仏蘭西北部の人が葡萄酒に酔い、菓子屋の丁稚が甘に耽るが如く、底止するところを知らざるにいたるべし。人を順良にせんとするの方便は、たまたまこれを詭激に導くの助・・・ 福沢諭吉 「経世の学、また講究すべし」
・・・花柳の間に奔々して青楼の酒に酔い、別荘妾宅の会宴に出入の芸妓を召すが如きは通常の人事にして、甚だしきは大切なる用談も、酒を飲み妓に戯るるの傍らにあらざれば、談者相互の歓心を結ぶに由なしという。醜極まりて奇と称すべし。 数百年来の習俗なれ・・・ 福沢諭吉 「日本男子論」
・・・ 大蔵委員会で、数百万の人々の生命に関する新給与問題を扱いながら酒に酔いくらって婦人代議士に無礼をするような閣僚をもつ政府はいやです、と全日本の婦人が発言したとして、それのどこが不自然だろうか。議員も閣僚たちもみんなわたしたちの税で、歳・・・ 宮本百合子 「今年のことば」
・・・「よい心持ちに酔いました。先日からかれこれと心づかいをいたしましたせいか、いつもより酒が利いたようでござります。ご免をこうむってちょっと一休みいたしましょう」 こう言って長十郎は起って居間にはいったが、すぐに部屋の真ん中に転がって、鼾を・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・劇場を出た時には三人とも歓びのあまり、酔いつぶれた人のように、気の狂った人のように、恥も外聞もなく、よろめいて歩いた。バアルはその夜徹夜して書きたいような心持ちになったが、筆をとってみると一語さえも書くことはできない。デュウゼについて初めて・・・ 和辻哲郎 「エレオノラ・デュウゼ」
出典:青空文庫