・・・その途端に侍の手が刀の柄前にかかったと思うと、重ね厚の大刀が大袈裟に左近を斬り倒した。左近は尻居に倒れながら、目深くかぶった編笠の下に、始めて瀬沼兵衛の顔をはっきり見る事が出来たのであった。 二 左近を打たせた・・・ 芥川竜之介 「或敵打の話」
・・・着物を重ねても寒い秋寒に講壇には真裸なレオというフランシスの伴侶が立っていた。男も女もこの奇異な裸形に奇異な場所で出遇って笑いくずれぬものはなかった。卑しい身分の女などはあからさまに卑猥な言葉をその若い道士に投げつけた。道士は凡ての反感に打・・・ 有島武郎 「クララの出家」
・・・ と見ると、藤紫に白茶の帯して、白綾の衣紋を襲ねた、黒髪の艶かなるに、鼈甲の中指ばかり、ずぶりと通した気高き簾中。立花は品位に打たれて思わず頭が下ったのである。 ものの情深く優しき声して、「待遠かったでしょうね。」 一言あた・・・ 泉鏡花 「伊勢之巻」
・・・を押えて止をさし死がいを浮藁の下にしずめそうっと家にかえったけれ共世間にはこんな事を知って居る人は一人もなくその後は家は栄えて沢山の牛も一人で持ち田畠も求めそれ綿の花盛、そら米の秋と思うがままの月日を重ねて小吟も十四になって美しゅう化粧なん・・・ 著:井原西鶴 訳:宮本百合子 「元禄時代小説第一巻「本朝二十不孝」ぬきほ(言文一致訳)」
・・・が、爰に一つ註釈を加えねばならないのは元来江戸のいわゆる通人間には情事を風流とする伝襲があったので、江戸の通人の女遊びは一概に不品行呼ばわりする事は出来ない。このデカダン興味は江戸の文化の爛熟が産んだので、江戸時代の買妓や蓄妾は必ずしも淫蕩・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・植物界広しといえどもユトランドの荒地に適しそこに成育してレバノンの栄えを呈わす樹はあるやなしやと彼は研究に研究を重ねました。しかして彼の心に思い当りましたのはノルウェー産の樅でありました、これはユトランドの荒地に成育すべき樹であることはわか・・・ 内村鑑三 「デンマルク国の話」
・・・その間に、おたよりをいただいたとき、北の国の星の光が、青いということが重ねて書いてありました。そして、雪の凍る寒い静かな夜の、神秘なことが書いてありました。 青い星を見た刹那から、彼女を北へ北へとしきりに誘惑する目に見えない不思議な力が・・・ 小川未明 「青い星の国へ」
・・・……声まで顫えて、なるほど一枚ではさぞ寒かろうと、おれも月並みに同情したが、しかし、同じ顫えるなら、単衣の二枚重ねなどという余り聴いたことのないおかしげな真似は、よしたらどうだ。……それに、二円貸せとは、あれは一体なんだ? 同じことなら、二・・・ 織田作之助 「勧善懲悪」
・・・新モスの胴着や綿入れは、やはり同じ下宿人の会社員の奥さんが縫ってくれて、それもできてきて、彼女の膝の前に重ねられてあった。「いったいどんな気がしているのかなあ?……あんなことをしていて。……やはり男性には解らない感じのものかもしれないな・・・ 葛西善蔵 「死児を産む」
・・・糸杉の巻きあがった葉も見える。重ね綿のような恰好に刈られた松も見える。みな黝んだ下葉と新しい若葉で、いいふうな緑色の容積を造っている。 遠くに赤いポストが見える。 乳母車なんとかと白くペンキで書いた屋根が見える。 日をうけて赤い・・・ 梶井基次郎 「城のある町にて」
出典:青空文庫