・・・(立ち上り、縁側に出て、鍋を七輪からおろし、かわりに鉄瓶これからも一生、野中家だ、山本家だ、と互いに意地を張りとおして、そうして、どういう事になるのかな? 僕には、わからん。わからん。あなたも、いまにお嫁さんをおもらいになったら、おわか・・・ 太宰治 「春の枯葉」
・・・火鉢の鉄瓶の単調なかすかな音を立てているのだけが、何だか心強いような感じを起させる。眼瞼に蔽いかかって来る氷袋を直しながら、障子のガラス越しに小春の空を見る。透明な光は天地に充ちてそよとの風もない。門の垣根の外には近所の子供が二、三人集まっ・・・ 寺田寅彦 「枯菊の影」
・・・とある雨の夜、父は他所の宴会に招かれて更けるまで帰らず、離れの十畳はしんとして鉄瓶のたぎる音のみ冴える。外には程近い山王台の森から軒の板庇を静かにそそぐ雨の音も佗しい。所在なさに縁側の障子に背をもたせて宿で借りた尺八を吹いていた。一しきり襲・・・ 寺田寅彦 「やもり物語」
・・・ お絹はいつでもお茶のはいるように、瀟洒な瀬戸の風炉に火をいけて、古風な鉄瓶に湯を沸らせておいた。「こんな風炉どこにあったやろう」道太を見に来た母親は、二階へ上がると、そう言ってその風炉を眺めていた。「茶入れやお茶碗なんか、家に・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・今朝埋けた佐倉炭は白くなって、薩摩五徳に懸けた鉄瓶がほとんど冷めている。炭取は空だ。手を敲いたがちょっと台所まで聴えない。立って戸を明けると、文鳥は例に似ず留り木の上にじっと留っている。よく見ると足が一本しかない。自分は炭取を縁に置いて、上・・・ 夏目漱石 「文鳥」
・・・ 丁度、デッキと同じ大きさの、熱した鉄瓶の尻と、空気ほどの広さの、赤熱した鉄板と、その間の、******そうでもない。何のこたあない、ストーヴの中のカステラ見たいな、熱さには、ヨウリスだって持たないんだ。 で、水夫たちは、珍らしくも・・・ 葉山嘉樹 「労働者の居ない船」
・・・と、小万は懐紙で鉄瓶の下を煽いでいる。 吉里は燭台煌々たる上の間を眩しそうに覗いて、「何だか悲アしくなるよ」と、覚えず腮を襟に入れる。「顔出しだけでもいいんですから、ちょいとあちらへおいでなすッて下さい」と、例のお熊は障子の外から声・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・朝夕水を用いてその剛軟を論じながら、その水は何物の集まりて形をなしたるものか、その水中に何物を混じ何物を除けば剛水となり、また軟水となるかの証拠を求めず、重炭酸加爾幾は水に混合してその性を剛ならしめ、鉄瓶等の裏面に附着する水垢と称するものは・・・ 福沢諭吉 「物理学の要用」
新築地の「建設の明暗」はきっと誰にとっても終りまですらりと観られた芝居であったろうと思う。 廃れてゆく南部鉄瓶工の名人肌の親方新耕堂久作が、古風な職人気質の愛着と意地とをこれまで自分の命をうちこんで来た鉄瓶作りに傾けて・・・ 宮本百合子 「「建設の明暗」の印象」
・・・都会の奥様は、日髪、日化粧で、長火鉢の前で鉄瓶の湯気の番人をして居ればすむ様に思って居る。 東京――都会の生活を非常に理想的に考えて居る事、都会に出れば、道傍の石をつかむ様に成功の出来るもの、世話の仕手が四方八方にある様に思う事、食うに・・・ 宮本百合子 「農村」
出典:青空文庫