・・・石井翁は帯の間から銀時計の大きいのを出して見て、「三時半です」「イヤそれじゃもう行かなきゃならん。」と河田翁は口早に言って、急に声を潜め、あたりをきょろきょろ見回しながら、「実はわたし、このごろある婦人会の集金係をしているのです・・・ 国木田独歩 「二老人」
・・・だが、もうそこの棚には、私の大切な銀時計がない。私は暫くその中に立ったまま首をかしげ、歩き出すことが出来なかった。どんな人がもって行ったか、その人相を想像するよすがもない。私は、父の顔を見た途端、困っちゃったと云った、時計をなくしちゃった、・・・ 宮本百合子 「時計」
・・・ 今の場合、わざわざ拾って来られたところでどうしようもない魚籠だの釣竿だのを、一つ一つ若者の前へ並べたてながら、彼らは財布と銀時計――若者も内心ではどうなったろうと思っていた――をこっそり牒し合わせて、見付からないことにしてしまった。・・・ 宮本百合子 「禰宜様宮田」
・・・秀麿と大した点数の懸隔もなくて、優等生として銀時計を頂戴した同科の新学士は、文部省から派遣せられる筈だのに、現にヨオロッパにいる一人が帰らなくては、経費が出ないので、それを待っているうちに、秀麿の方は当主の五条子爵が先へ立たせてしまった。子・・・ 森鴎外 「かのように」
・・・佐野さんの手で書いて連署した遺書が床の間に置いてあって、その上に佐野さんの銀時計が文鎮にしてあった。お蝶の名だけはお蝶が自筆で書いている。文面の概略はこうである。「今年の暮に機屋一家は破産しそうである。それはお蝶が親の詞に背いた為めである。・・・ 森鴎外 「心中」
出典:青空文庫