・・・十六夜清心が身をなげた時にも、源之丞が鳥追姿のおこよを見そめた時にも、あるいはまた、鋳掛屋松五郎が蝙蝠の飛びかう夏の夕ぐれに、天秤をにないながら両国の橋を通った時にも、大川は今のごとく、船宿の桟橋に、岸の青蘆に、猪牙船の船腹にものういささや・・・ 芥川竜之介 「大川の水」
・・・ 何としても、これは画工さんのせいではない――桶屋、鋳掛屋でもしたろうか?……静かに――それどころか!……震災前には、十六七で、渠は博徒の小僧であった。 ――家、いやその長屋は、妻恋坂下――明神の崖うらの穴路地で、二階に一室の古屋だ・・・ 泉鏡花 「木の子説法」
・・・何とかいう芝居で鋳掛屋の松という男が、両国橋の上から河上を流れる絃歌の声を聞いて翻然大悟しその場から盗賊に転業したという話があるくらいだから、昔から似よった考えはあったに相違ない。しかしまた昔はずいぶん人の栄華を見て奮発心を起して勉強した人・・・ 寺田寅彦 「電車と風呂」
・・・と呼わりながら門巷を過るが鋳掛屋の声はいつからとも知らず耳遠くなってしまった。是れ現代の家庭に在っては台所で使う鍋釜のたぐいも悉く廉価なる粗製品となり、破損すれば直様古きを棄てて新しきを購うようになった為めであろう。何物にかぎらず多年使い馴・・・ 永井荷風 「巷の声」
出典:青空文庫