・・・しかし非常な能弁家で、彼の舌の先から唾液を容赦なく我輩の顔面に吹きかけて話し立てる時などは滔々滾々として惜い時間を遠慮なく人に潰させて毫も気の毒だと思わぬくらいの善人かつ雄弁家である。この善人にして雄弁家なるベッジパードンは倫敦に生れながら・・・ 夏目漱石 「倫敦消息」
・・・遺憾ながら予の顔面に該当品を発見せず」 あきらかに、いまの日本に横行している、笑わされたあとでは、気分がわるくなるくすぐりの調子である。崇仁親王という名と、その人のストリップ的なこのようなくすぐりと。この結び合わせこそ、「とんでもハップ・・・ 宮本百合子 「戦争はわたしたちからすべてを奪う」
・・・ この表情は、これほど真率に、凝集して現れているのを見たことは稀だとしても、今日の日本の青年たちの毎日のうちに、一度二度は必ず顔面を掠めて通る感じではないだろうか。 若い女性たちの口許に、同じような表情が浮ぶ時も多く見かける。 ・・・ 宮本百合子 「その源」
・・・八月八日に「はじめて面会を許されて弟に会いましたが、そのとき立ち会った木村検事にわたしが、公正な立場でやっていただきたいというと『宮原係の検事としてききずてならない』と酒を飲んだように顔面を紅潮させて、両脇腹に手をあてがって『でっちあげるの・・・ 宮本百合子 「それに偽りがないならば」
・・・端厳微妙な顔面の表情や、腕、脚の霊活な線について。よき芸術にふれた歓喜を、彼等は各々多くの場合専門語で表現するに違いない。そう本ものの美術観賞家とも生れついていまい若者は、傍でそれ等テクニカル・タームの数々を耳に浚い込む。文学青年という熟語・・・ 宮本百合子 「宝に食われる」
・・・有名なイタリーの犯罪心理学者であったロンブロゾーは、人間の頭蓋骨の発達の型や、顔面の角度の関係やらを統計して今日でも適用されている所謂犯罪型という一タイプを規定した。更に彼はこれらの先天的に犯罪型の頭蓋をもって生れ、何か犯罪をやって現に拘禁・・・ 宮本百合子 「花のたより」
・・・止った遊覧自動車のまわりは顔面と声だけ夜から見分けのつく大小の子供達で鈴なりである。 ――ペニーおくれよ、小父さん! ――お金! お金おくれ! 外套の前をきっちり合わせ肩をいからすようにして子供たちをかき分けながら男達は急いで腕・・・ 宮本百合子 「ロンドン一九二九年」
・・・いかに単純化した手法を用うるにしても、顔面のあらゆる筋肉や影や色を閑却しようとしない洋画家は、歴史上の人物の肖像を描き得るために、モデルを前に置いたと同じ明らかさをもって、想像の人間の顔を幻視し得ねばならぬ。このことは画家にとって非常な難事・・・ 和辻哲郎 「院展遠望」
・・・のなかには、「顔面」の担っている意味よりも重い意味を担っているものはない。その点から考えると、埴輪人形の顔面が体の他の部分と著しく異なった印象を与えるのは、いかにも当然のことなのである。 顔面は、眼、鼻、口、頬、顎、眉、額、耳など、一通・・・ 和辻哲郎 「人物埴輪の眼」
・・・死相をそのまま現わしたような翁や姥の面はいうまでもなく、若い女の面にさえも急死した人の顔面に見るような肉づけが認められる。能面が一般に一味の気味悪さを湛えているのはかかる否定性にもとづくのである。一見してふくよかに見える面でも、その開いた眼・・・ 和辻哲郎 「能面の様式」
出典:青空文庫