・・・この趣味を描くために武蔵野に散在せる駅、駅といかぬまでも家並、すなわち製図家の熟語でいう聯檐家屋を描写するの必要がある。 また多摩川はどうしても武蔵野の範囲に入れなければならぬ。六つ玉川などと我々の先祖が名づけたことがあるが武蔵の多摩川・・・ 国木田独歩 「武蔵野」
・・・ 大興駅附近の丘陵や、塹壕には砲弾に見舞われた支那兵が、無数に野獣に喰い荒された肉塊のように散乱していた。和田たちの中隊は、そこを占領した。支那兵は生前、金にも食物にも被服にもめぐまれなかった有様を、栄養不良の皮膚と、ちぎれた、ボロボロ・・・ 黒島伝治 「チチハルまで」
・・・鴻巣上尾あたりは、暑気に倦めるあまりの夢心地に過ぎて、熊谷という駅夫の声に驚き下りぬ。ここは荒川近き賑わえる町なり。明日は牛頭天王の祭りとて、大通りには山車小屋をしつらい、御神輿の御仮屋をもしつらいたり。同じく祭りのための設けとは知られなが・・・ 幸田露伴 「知々夫紀行」
・・・ N駅に出る狭い道を曲がった時、自動車の前を毎朝めしを食いに行っていた食堂のおかみさんが、片手に葱の束を持って、子供をあやしながら横切って行くのを見付けた。 前に、俺はそこの食堂で「金属」の仕事をしていた女の人と十五銭のめしを食って・・・ 小林多喜二 「独房」
・・・ 中央線の落合川駅まで出迎えた太郎は、村の人たちと一緒に、この私たちを待っていた。木曾路に残った冬も三留野あたりまでで、それから西はすでに花のさかりであった。水力電気の工事でせき留められた木曾川の水が大きな渓の間に見えるようなところで、・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・常徴発令を発布して、東京および各地方から、食料品、飲料、薪炭その他の燃料、家屋、建築材料、薬品、衛生材料、船その他の運ぱん具、電線、労務を徴発する方法をつけ、まず市内の自動車数百だいをとりあつめて新宿駅につまれていた六千俵の米を徴発し、り災・・・ 鈴木三重吉 「大震火災記」
・・・いや、大酒を飲むのは、毎夜の事であって、なにも珍らしい事ではないけれども、その日、仕事場からの帰りに、駅のところで久し振りの友人と逢い、さっそく私のなじみのおでんやに案内して大いに飲み、そろそろ酒が苦痛になりかけて来た時に、雑誌社の編輯者が・・・ 太宰治 「朝」
・・・ 停留場の駅長が赤い回数切符を切って返した。この駅長もその他の駅夫も皆この大男に熟している。せっかちで、あわて者で、早口であるということをも知っている。 板囲いの待合所に入ろうとして、男はまたその前に兼ねて見知り越しの女学生の立って・・・ 田山花袋 「少女病」
真夏の正午前の太陽に照りつけられた関東平野の上には、異常の熱量と湿気とを吸込んだ重苦しい空気が甕の底のおりのように層積している。その層の一番どん底を潜って喘ぎ喘ぎ北進する汽車が横川駅を通過して碓氷峠の第一トンネルにかかるこ・・・ 寺田寅彦 「浅間山麓より」
・・・それでも生き残った二人か三人を迎えることができるかしら――彼はそんなことを思いながら、ぽつぽつ落ちてくる雨をくぐって、気ばかり駅へ急いだものであった。道太は湯に浸りながら、駅で一人一人救護所へ入っていった当時の避難者の顔や姿まで思いだすこと・・・ 徳田秋声 「挿話」
出典:青空文庫