・・・忽然、かれはその前に驚くべき長大なる自己の影を見た。肩の銃の影は遠い野の草の上にあった。かれは急に深い悲哀に打たれた。 草叢には虫の声がする。故郷の野で聞く虫の声とは似もつかぬ。この似つかぬことと広い野原とがなんとなくその胸を痛めた。一・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・そしてこの物が特別な条件の下に驚くべき快速度で運動する事も分って来た。こういう物の運動に関係した問題に触れ初めると同時に、今までそっとしておいた力学の急所がそろそろ痛みを感ずるようになって来た。ロレンツのごとき優れた老大家は疾くからこの問題・・・ 寺田寅彦 「アインシュタイン」
・・・老樹の梢には物すごく鳴る木枯が、驚くばかり早く、庭一帯に暗い夜を吹下した。見えない屋敷の方で、遠く消魂しく私を呼ぶ乳母の声。私は急に泣出し、安に手を引かれて、やっと家へ帰った事がある。 安は埋めた古井戸の上をば奇麗に地ならしをしたが、五・・・ 永井荷風 「狐」
・・・ ひく浪の返す時は、引く折の気色を忘れて、逆しまに岸を噛む勢の、前よりは凄じきを、浪自らさえ驚くかと疑う。はからざる便りの胸を打ちて、度を失えるギニヴィアの、己れを忘るるまでわれに遠ざかれる後には、油然として常よりも切なきわれに復る。何・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・「今行ったが開かなかったのさ」「そうだろう、俺が閂を下したからな」「お前が! そしてお前はどこから出て来たんだ」 私は驚いた。あの室には出入口は外には無い筈だった。「驚くことはないさ。お前の下りた階段をお前の一つ後から一・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・ 平田は驚くほど蒼白た顔をして、「遅くなッた、遅くなッた」と、独語のように言ッて、忙がしそうに歩き出した。足には上草履を忘れていた。「平田さん、お草履を召していらッしゃい」と、お梅は戻ッて上草履を持ッて、見返りもせぬ平田を追ッかけて・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・其偏頗不公平唯驚くに堪えたり。畢竟記者は婚姻契約の重きを知らず、随て婦人の権利を知らず、恰も之を男子手中の物として、要は唯服従の一事なるが故に、其服従の極、男子の婬乱獣行をも軽々に看過せしめんとして、苟も婦人の権利を主張せんとするものあれば・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・その気障加減には自分ながら驚く。○僕は子供の時から手先が不器用であったから、画は好きでありながらそれを画く事は出来なかった。普通に子供の画く大将絵も画けなかった。この頃になって彩色の妙味を悟ったので、彩色絵を画いて見たい、と戯れにい・・・ 正岡子規 「画」
・・・の日本に於けるブルジョア文化の一形態であったキリスト教婦人同盟の主宰者として活躍した葉子の母の、権力を愛し、主我的な生き方に対して自然の皮肉な競争者として現われた娘葉子が、少女時代から特殊な環境の中で驚くべき美貌と才気とを発揮させつつ、いつ・・・ 宮本百合子 「「或る女」についてのノート」
・・・又驚く間もなく、白紙の上に血がたらたらと落ちた。背後から一刀浴せられたのである。 夜具葛籠の前に置いてあった脇差を、手探りに取ろうとする所へ、もう二の太刀を打ち卸して来る。無意識に右の手を挙げて受ける。手首がばったり切り落された。起ち上・・・ 森鴎外 「護持院原の敵討」
出典:青空文庫