・・・彼は白足袋に角帯で単衣の下から鼠色の羽二重を掛けた襦袢の襟を出していた。「今日はだいぶしゃれてるじゃないか」「昨夕もこの服装ですよ。夜だからわからなかったんでしょう」 自分はまた黙った。それからまたこんな会話を二、三度取りかわし・・・ 夏目漱石 「手紙」
・・・ 鼻の先から出る黒煙りは鼠色の円柱の各部が絶間なく蠕動を起しつつあるごとく、むくむくと捲き上がって、半空から大気の裡に溶け込んで碌さんの頭の上へ容赦なく雨と共に落ちてくる。碌さんは悄然として、首の消えた方角を見つめている。 しばらく・・・ 夏目漱石 「二百十日」
・・・頭巾の附いた、鼠色の外套の長いのをはおっているが、それが穴だらけになっている。爺いさんはパンと腸詰とを、物欲しげにじっと見ている。 一本腕は何一つ分けてやろうともせずに、口の中の物をゆっくり丁寧に噬んでいる。 爺いさんは穹窿の下を、・・・ 著:ブウテフレデリック 訳:森鴎外 「橋の下」
・・・ひばりの子は、ありがとうと言うようにその鼠色の顔をあげました。 ホモイはそれを見るとぞっとして、いきなり跳び退きました。そして声をたてて逃げました。 その時、空からヒュウと矢のように降りて来たものがあります。ホモイは立ちどまって、ふ・・・ 宮沢賢治 「貝の火」
・・・丘の途中の小さな段を一つ越えて、ひょっと上の栗の木を見ますと、たしかにあの赤髪の鼠色のマントを着た変な子が草に足を投げ出して、だまって空を見上げているのです。今日こそ全く間違いありません。たけにぐさは栗の木の左の方でかすかにゆれ、栗の木のか・・・ 宮沢賢治 「風野又三郎」
・・・ 列車は、婆さんが鼠色のコートにくるまって不機嫌で愚かな何かの怪のように更に遠く辿って行くだろう疎林の小径を右に見て走った。〔一九二七年十二月〕 宮本百合子 「一隅」
・・・私は仔熊のような防寒靴をはいたまま、外套も着たまま腰かけてそれを聴いていて、好意を感じた。鼠色のフランネルの襯衣を着たりして、手の赤い楽師たちのその熱心さのなかには、人類の芸術の宝をもう一度本当に自分たちのものとして持ち直そうとしている、そ・・・ 宮本百合子 「映画」
・・・そしてあちこちにある樅の木立は次第に濃くなる鼠色に漬されて行く。 七人の知らぬ子供達は皆じいっとして、木精の尻声が微かになって消えてしまうまで聞いている。どの子の顔にも喜びの色が輝いている。その色は生の色である。 群れを離れてやはり・・・ 森鴎外 「木精」
・・・ 黒の縁を取った鼠色の洋服を着ている。 東洋で生れた西洋人の子か。それとも相の子か。 第八の娘は裳のかくしから杯を出した。 小さい杯である。 どこの陶器か。火の坑から流れ出た熔巌の冷めたような色をしている。 七人の娘・・・ 森鴎外 「杯」
・・・外は曇って鼠色の日になっていましても、壁には晴れた日の色が残っているのでございます。本当に国の方は鼠色の日ばかりでございますね。それなのにわたくしの部屋はいつも晴やかでございます。窓には白い、透いて見える窓帷が懸けてあります。その向うには白・・・ 著:リルケライネル・マリア 訳:森鴎外 「白」
出典:青空文庫