出典:青空文庫
・・・海は――目の前に開いている海も、さながら白昼の寂寞に聞き入ってでもいるかのごとく、雲母よりもまぶしい水面を凝然と平に張りつめている。樗牛の吐息はこんな瞬間に、はじめて彼の胸からあふれて出た。――自分はこういう樗牛を想像しながら、長い秋の夜を・・・ 芥川竜之介 「樗牛の事」
・・・ある者は赤い方をまっしぐらに走っているし、ある者は青い方をおもむろに進んで行くし、またある者は二つの道に両股をかけて欲張った歩き方をしているし、さらにある者は一つの道の分かれ目に立って、凝然として行く手を見守っている。揺籃の前で道は二つに分・・・ 有島武郎 「二つの道」
・・・中庭を黒く渡る風の音を聴きながら、深夜の荒涼たる部屋のなかで凝然として力のない眼を瞠いていたという。突然襲って来る焦躁にたまりかねて、あっと叫び声をあげ祈るように両手も差し上げるのだが、しかし天井からは埃ひとつ落ちて来ない。祈っても駄目だ、・・・ 織田作之助 「道」
・・・一つの曲目が終わって皆が拍手をするとき私は癖で大抵の場合じっとしているのだったが、この夜はことに強いられたように凝然としていた。するとどよめきに沸き返りまたすーっと収まってゆく場内の推移が、なにか一つの長い音楽のなかで起ることのように私の心・・・ 梶井基次郎 「器楽的幻覚」
・・・彼は袴も脱がぬ外出姿のまま凝然と部屋に坐っていた。 突然匕首のような悲しみが彼に触れた。次から次へ愛するものを失っていった母の、ときどきするとぼけたような表情を思い浮かべると、彼は静かに泣きはじめた。 夕餉をしたために階下へ下りる頃・・・ 梶井基次郎 「冬の日」
・・・と言った時、岡本は凝然と上村の顔を見た。「そしてやたらに北海道の話を聞いて歩いたもんだ。伝道師の中に北海道へ往って来たという者があると直ぐ話を聴きに出掛けましたよ。ところが又先方は甘いことを話して聞かすんです。やれ自然がどうだの、石狩川・・・ 国木田独歩 「牛肉と馬鈴薯」
・・・背の高い骨格の逞ましい老人は凝然と眺めて、折り折り眼をしばだたいていたが、何時しか先きの気勢にも似ずさも力なさそうに細川繁を振向いて「オイ貴公この道具を宅まで運こんでおくれ、乃公は帰るから」 言い捨てて去って了った。校長の細川は取残・・・ 国木田独歩 「富岡先生」
・・・何もお前遊びとは定まっていなかったが……と、ただ無意識で正直な挨拶をしながら、自分は凝然と少年を見詰めていた。その間に少年は自分が見詰められているのも何にも気が着かないのであろう、別に何らの言語も表情もなく、自分の竿を挙げ、自分の坐をわ・・・ 幸田露伴 「蘆声」
・・・鴉は羽ばたきもせず、頭も上げず、凝然たる姿勢のままで、飢渇で力の抜けた体を水に落した。そして水の上でくるくると輪をかいて流れて行った。七人の男は鴉の方を見向きもしない。 どこをも、別荘の園のあるあたりをも、波戸場になっているあたりをも、・・・ 著:シュミットボンウィルヘルム 訳:森鴎外 「鴉」
・・・ 月のない闇黒の一夜、湖心の波、ひたひたと舟の横腹を舐めて、深さ、さあ五百ひろはねえずらよ、とかこの子の無心の答えに打たれ、われと、それから女、凝然の恐怖、地獄の底の細き呼び声さえ、聞えて来るような心地、死ぬることさえ忘却し果てた、・・・ 太宰治 「二十世紀旗手」