・・・日常生活の拘束からわれわれの心を自由の境地に解放して、その間にともすれば望ましき内省の余裕を享楽するのが風流であり、飽くところを知らぬ欲望を節制して足るを知り分に安んずることを教える自己批判がさびの真髄ではあるまいか。 俳句を修業すると・・・ 寺田寅彦 「俳句の精神」
・・・「灰汁桶のしずくやみけりきりぎりす」「あぶらかすりて宵寝する秋」という一連がある。これに関する評釈はおそらく今までに言い尽くされ書き尽くされているであろうと思う。しかし心理学的連想の実例を捜している一学究としてあらゆる芸術的の立場を離れ・・・ 寺田寅彦 「連句雑俎」
・・・があかないから、わたしお隣の緑軒でかけてきましたわ」お絹はそう言って、鼻頭ににじみでた汗をふいていた。 辰之助は序幕に間に合った。「河内山」がすんで、「盛綱陣屋」が開く時分に、先刻から場席を留守にしていたお絹が、やっと落ち著いた顔を・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・この次の時代をつくるわれわれの子孫といえども、果してよく前の世のわれわれのように廉価を以て山海の美味に飽くことができるだろうか。昭和廿二年十月 ○ 松杉椿のような冬樹が林をなした小高い岡の麓に、葛飾という京・・・ 永井荷風 「葛飾土産」
・・・梅の樹、碧梧の梢が枝ばかりになり、芙蓉や萩や頭や、秋草の茂りはすっかり枯れ萎れてしまったので、庭中はパッと明く日が一ぱいに当って居て、嘗て、小蛇蟲けらを焼殺した埋井戸のあたりまで、又恐しい崖下の真黒な杉の木立の頂きまでが、枯れた梢の間から見・・・ 永井荷風 「狐」
・・・繊巧な模様のような葉のところどころに黄色な花が小さく開く。淡緑色の小さな玉が幾つか麦藁の上に軽く置かれた。太十は畑の隅に柱を立てて番小屋を造った。屋根は栗幹で葺いて周囲には蓆を吊った。いつしか高くなった蜀黍は其広く長い葉が絶えずざわついて稀・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・と膝の上なる詩集を読む気もなしに開く。眼は文字の上に落つれども瞳裏に映ずるは詩の国の事か。夢の国の事か。「百二十間の廻廊があって、百二十個の灯籠をつける。百二十間の廻廊に春の潮が寄せて、百二十個の灯籠が春風にまたたく、朧の中、海の中には・・・ 夏目漱石 「一夜」
・・・朝に向い夕に向い、日に向い月に向いて、厭くちょう事のあるをさえ忘れたるシャロットの女の眼には、霧立つ事も、露置く事もあらざれば、まして裂けんとする虞ありとは夢にだも知らず。湛然として音なき秋の水に臨むが如く、瑩朗たる面を過ぐる森羅の影の、繽・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・空は灰汁桶を掻き交ぜたような色をして低く塔の上に垂れ懸っている。壁土を溶し込んだように見ゆるテームスの流れは波も立てず音もせず無理矢理に動いているかと思わるる。帆懸舟が一隻塔の下を行く。風なき河に帆をあやつるのだから不規則な三角形の白き翼が・・・ 夏目漱石 「倫敦塔」
・・・彼らが題せる一字一画は、号泣、涕涙、その他すべて自然の許す限りの排悶的手段を尽したる後なお飽く事を知らざる本能の要求に余儀なくせられたる結果であろう。 また想像して見る。生れて来た以上は、生きねばならぬ。あえて死を怖るるとは云わず、ただ・・・ 夏目漱石 「倫敦塔」
出典:青空文庫