・・・――その店先の雨明りの中に、パナマ帽をかぶった賢造は、こちらへ後を向けたまま、もう入口に直した足駄へ、片足下している所だった。「旦那。工場から電話です。今日あちらへ御見えになりますか、伺ってくれろと申すんですが………」 洋一が店へ来・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・自分は着物を着換えながら、女中に足駄を出すようにと云った。そこへ大阪のN君が原稿を貰いに顔を出した。N君は泥まみれの長靴をはき、外套に雨の痕を光らせていた。自分は玄関に出迎えたまま、これこれの事情のあったために、何も書けなかったと云う断りを・・・ 芥川竜之介 「子供の病気」
・・・わたくしは傘を斬られると同時に、思わず右へ飛びすさりました。足駄ももうその時には脱いで居ったようでございまする。と、二の太刀が参りました。二の太刀はわたくしの羽織の袖を五寸ばかり斬り裂きました。わたくしはまた飛びすさりながら、抜き打ちに相手・・・ 芥川竜之介 「三右衛門の罪」
・・・麻緒の足駄の歯をよじって、憎々しげにふり返りますと、まるで法論でもしかけそうな勢いで、『それとも竜が天上すると申す、しかとした証拠がござるかな。』と問い詰るのでございます。そこで恵印はわざと悠々と、もう朝日の光がさし始めた池の方を指さしまし・・・ 芥川竜之介 「竜」
・・・ 内で熟としていたんじゃ、たとい曳くにしろ、車も曳けない理窟ですから、何がなし、戸外へ出て、足駄穿きで駈け歩行くしだらだけれど、さて出ようとすると、気になるから、上り框へ腰をかけて、片足履物をぶら下げながら、母さん、お米は? ッて聞くん・・・ 泉鏡花 「女客」
・・・この宮の境内に、階の方から、カタンカタン、三ツ四ツ七ツ足駄の歯の高響。 脊丈のほども惟わるる、あの百日紅の樹の枝に、真黒な立烏帽子、鈍色に黄を交えた練衣に、水色のさしぬきした神官の姿一体。社殿の雪洞も早や影の届かぬ、暗夜の中に顕れたのが・・・ 泉鏡花 「茸の舞姫」
・・・ 九歳十歳ばかりのその小児は、雪下駄、竹草履、それは雪の凍てた時、こんな晩には、柄にもない高足駄さえ穿いていたのに、転びもしないで、しかも遊びに更けた正月の夜の十二時過ぎなど、近所の友だちにも別れると、ただ一人で、白い社の広い境内も抜け・・・ 泉鏡花 「雪霊記事」
・・・ 早いもので、もう番傘の懐手、高足駄で悠々と歩行くのがある。……そうかと思うと、今になって一目散に駆出すのがある。心は種々な処へ、これから奥は、御堂の背後、世間の裏へ入る場所なれば、何の卑怯な、相合傘に後れは取らぬ、と肩の聳ゆるまで一人・・・ 泉鏡花 「妖術」
・・・ 沼南夫人のジャラクラした姿態や極彩色の化粧を一度でも見た人は貞操が足駄を穿いて玉乗をするよりも危なッかしいのを誰でも感ずるだろう。が、世界の美人を一人で背負って立ったツモリの美貌自慢の夫人が択りに択って面胞だらけの不男のYを対手に恋の・・・ 内田魯庵 「三十年前の島田沼南」
・・・ 伯母の夫は、足駄をはいて、両手に一俵ずつ四斗俵を鷲掴みにさげて歩いたり、肩の上へ同時に三俵の米俵をのっけて、河にかけられた細い、ひわ/\する板橋を渡ったりする力持ちだった。その伯父が、男は、嫁を取ると、もうそれからは力が増して来ない。・・・ 黒島伝治 「浮動する地価」
出典:青空文庫