・・・「隣だ」と髯なしが云う。やがて渋蛇の目を開く音がして「また明晩」と若い女の声がする。「必ず」と答えたのは男らしい。三人は無言のまま顔を見合せて微かに笑う。「あれは画じゃない、活きている」「あれを平面につづめればやはり画だ」「しかしあの声は?・・・ 夏目漱石 「一夜」
・・・「御山が少し荒れておりますたい」「荒れると烈しく鳴るのかね」「ねえ。そうしてよながたくさんに降って参りますたい」「よなた何だい」「灰でござりまっす」 下女は障子をあけて、椽側へ人指しゆびを擦りつけながら、「御覧な・・・ 夏目漱石 「二百十日」
・・・ 最後に、いかなる人も我子の死という如きことに対しては、種々の迷を起さぬものはなかろう。あれをしたらばよかった、これをしたらよかったなど、思うて返らぬ事ながら徒らなる後悔の念に心を悩ますのである。しかし何事も運命と諦めるより外はない。運・・・ 西田幾多郎 「我が子の死」
・・・ 西洋の詩人や文学者に、あれほど広く大きな影響をあたへたニイチェが、日本ではただ一人、それも死前の僅かな時期に於ける一小説家だけに影響をあたへたといふことは、まことに特殊な不思議の現象と言はねばならない。そのくせニイチェの名前だけは、日・・・ 萩原朔太郎 「ニイチェに就いての雑感」
・・・「あれが、御連中だよ」「それで何かい。その、お前は一体何をやらかしたんだね?」「何もやらかしゃしねえよ。これからやりに行く処なんだ。だが、お前さん、何だぜ、俺と話しをしてるとお前さんの迷惑になるかも知れねえぜ」「そり・・・ 葉山嘉樹 「乳色の靄」
・・・なんでもかまわないから、白色のものさえあればよい。ネギの白味、豚の白味、茶碗の欠片、白墨など。細い板の上にそれらのどれかをくくりつけ、先の方に三本ほど、内側にまくれたカギバリをとりつける。そして、オモリをつけて沈めておくと、タコはその白いも・・・ 火野葦平 「ゲテ魚好き」
・・・病気ではないが、頬に痩せが見えるのに、化粧をしないので、顔の生地は荒れ色は蒼白ている。髪も櫛巻きにして巾も掛けずにいる。年も二歳ばかり急に老けたように見える。 火鉢の縁に臂をもたせて、両手で頭を押えてうつむいている吉里の前に、新造のお熊・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・「わるどめせずとも、そこ放せ、明日の月日の、ないように、止めるそなたの、心より、かえるこの身は、どんなにどんなに、つらかろう――」「あれは東雲さんの座敷だろう。さびのある美音だ。どこから来る人なんだ」と、西宮がお梅に問ねた時、廊下を・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・も一つ足なしになって尻でいざると云うのがあるが、爺いさん、あれはおめえやらないがいいぜ。第一道具がいる。それに馬鹿に骨が折れて、脚が引っ吊って来る。まあ、やっぱり手を出して一文貰うか、パンでも貰うかするんだなあ。おれはこのごろ時たま一本腕を・・・ 著:ブウテフレデリック 訳:森鴎外 「橋の下」
・・・人間世界に男女同数とあれば、其成長して他人の家に行く者の数も正しく同数と見て可なり。或は男子は分家して一戸の主人となることあるゆえ女子に異なりと言わんかなれども、女子ばかり多く生れたる家にては、其内の一人を家に置き之に壻養子して本家を相続せ・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
出典:青空文庫