・・・「死んだの?」「いいえ、死んだのならかえってあきらめがつきますが、別れたぎり、どうなったのか行き方が知れないのですよ。両親に早く死に別れて、たった二人の姉弟ですから、互いに力にしていたのが、今では別れ別れになって、生き死にさえわから・・・ 国木田独歩 「少年の悲哀」
・・・「いや、うそだうそだ。今さっきほかの者が来てすっかり持って行っちゃったんだ。」 松木はうしろから叫んだ。「いいえ、いらないわ。」 彼女の細長い二本の脚は、強いばねのように勢いよくはねながら、丘を登った。「ガーリヤ! 待て・・・ 黒島伝治 「渦巻ける烏の群」
・・・「飛んだお師匠様だ、笑わせやがる。ハハハハ、まあ、いいから買って来な、一人飲みあしめえし。「だって、無いものを。「何だと。「貸はしないし、ちっとも無いんだものを。「智慧がか。「いいえさ。「べらぼうめえ、無えものは・・・ 幸田露伴 「貧乏」
・・・「君の出て来ることは、乙骨からも聞いたし、高瀬からも聞いた」と相川は馴々しく、「時に原君、今度は細君も御一緒かね」「いいえ」と原はすこし改まったような調子で、「僕一人で出て来たんです。種々都合があって、家の者は彼地に置いて来ました。・・・ 島崎藤村 「並木」
・・・「おばさんもみんな留守なんだそうですね」とはじめて口を聞く。「あの、今日は午過ぎから、みんなで大根を引きに行ったんですの」「どの畠へ出てるんですか。――私ちょっと行ってみましょう」「いいえ、もうただ今お長をやりましたから大騒・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・ おのぞみどおり 博士は莞爾と笑いました。いいえ、莞爾どころではございませぬ。博士ほどのお方が、えへへへと、それは下品な笑い声を発して、ぐっと頸を伸ばしてあたりの酔客を見廻しましたが、酔客たちは、格別相手になっては呉れませぬ。それで・・・ 太宰治 「愛と美について」
・・・つるはしのような杖をさげて繩を肩にかついだ案内者が、英語でガイドはいらぬかと言うから、お前は英語を話すかときくと、いいえと言いました。すべらない用心に靴の上へ靴下をはいて、一人で氷河を渡りました。いい心持ちでした。氷河の向こう側はモーヴェ・・・・ 寺田寅彦 「先生への通信」
・・・「いいえ、ここはまだ山手というほどではありません」桂三郎はのっしりのっしりした持前の口調で私の問いに答えた。「これからあなた、山手まではずいぶん距離があります」 広い寂しい道路へ私たちは出ていた。松原を切り拓いた立派な道路であっ・・・ 徳田秋声 「蒼白い月」
・・・といって促すと、お民は急に駄々をこねるような調子をつくって、「いいえ。帰りません。」と首を振って見せた。「帰ってくれというのに帰らないのは穏かでない。それではまるで強請も同様だ。お前さんがいくら何と云っても僕の方では金を出すべき義務・・・ 永井荷風 「申訳」
・・・「あるだんじゃ御座いません。昔しから人が烏鳴きが悪いとか何とか善く申すじゃ御座いませんか」「なるほど烏鳴きは聞いたようだが、犬の遠吠は御前一人のようだが――」「いいえ、あなた」と婆さんは大軽蔑の口調で余の疑を否定する。「同じ事で・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
出典:青空文庫