・・・ 賀古翁は鴎外とは竹馬の友で、葬儀の時に委員長となった特別の間柄だから格別だが、なるほど十二時を打ってからノソノソやって来られたのに数回邂逅った。 こんな塩梅で、その頃鴎外の処へ出掛けたのは大抵九時から十時、帰るのは早くて一時、随分・・・ 内田魯庵 「鴎外博士の追憶」
・・・、「先生の原稿だぞと委員云ひ」というようなのがあった。前者は万年博士が標準語に関する大論文を発表した際で、標準語という言葉がその頃の我々の仲間の流行語となっていた。また誰かの論文中“Chopin”をチョピンと書いてあったので、「チヨピンとは・・・ 内田魯庵 「斎藤緑雨」
・・・夫が今日では大学でも純粋文学を教授し、文部省には文芸審査委員が出来て一年中の傑作が国家の名を以て選奨せらるゝようになった。文部省の文芸審査に就て兎角の議論をする人があるが政府は万能で無いから政府の行う処必ずしも正鵠では無い。且文芸上の作品の・・・ 内田魯庵 「二十五年間の文人の社会的地位の進歩」
はしがき この小冊子は、明治二十七年七月相州箱根駅において開設せられしキリスト教徒第六夏期学校において述べし余の講話を、同校委員諸子の承諾を得てここに印刷に附せしものなり。 事、キリスト教と学生とにかんすること多し、しかれど・・・ 内村鑑三 「後世への最大遺物」
・・・右隣は歯科医院であった。 その歯科医院は古びたしもた家で、二階に治療機械を備えつけてあるのだが、いかにも煤ぼけて、天井がむやみに低く、機械の先が天井にすれすれになっていて、恐らく医者はこごみながら、しばしば頭を打っつけながら治療するので・・・ 織田作之助 「大阪発見」
・・・ところが自由寮には自治委員会という機関があって、委員には上級生がなっていたが、しかしこの委員は寮生間の互選ではなく、学校当局から指命されており、噂によれば寮生の思想傾向や行動を監視して、いかがわしい寮生を見つけると、学校当局へ報告するいわば・・・ 織田作之助 「髪」
・・・…… ――其の後、売薬規則の改備によって、医師の誹謗が禁じられると、こんどは肺病全快写真を毎日掲載して、何某博士、何某医院の投薬で治らなかった病人が、川那子薬で全快した云々と書き立てた。世の人心を瞞着すること、これに若くものはない。・・・ 織田作之助 「勧善懲悪」
・・・がかつて右翼陣営の言論人として自他共に許し、さかんに御用論説の筆を取っていた新聞の論説委員がにわかに自由主義の看板をかついで、恥としない現象も、不愉快であった。 だが、私たちはもはや欺されないであろう。私たちの頭が戦争呆けをしていない限・・・ 織田作之助 「終戦前後」
・・・という小説を、文芸推薦の選衡委員会で極力推薦してくれたことは、速記に明らかである。当時東京朝日新聞でも「唯一の大正生れの作家が現れた」という風に私のことを書いてくれた。「夫婦善哉」を小山書店から出さないかというような手紙もくれた。思えば、私・・・ 織田作之助 「武田麟太郎追悼」
・・・まえまえから胃腸が悪いと二ツ井戸の実費医院へ通い通いしていたが、こんどは尿に血がまじって小便するのにたっぷり二十分かかるなど、人にも言えなかった。前に怪しい病気に罹り、そのとき蝶子は「なんちう人やろ」と怒りながらも、まじないに、屋根瓦にへば・・・ 織田作之助 「夫婦善哉」
出典:青空文庫