・・・ 取扱いが如何にも気長で、「金額は何ほどですか。差出人は誰でありますか。貴下が御当人なのですか。」 などと間伸のした、しかも際立って耳につく東京の調子で行る、……その本人は、受取口から見た処、二十四、五の青年で、羽織は着ずに、小・・・ 泉鏡花 「国貞えがく」
・・・(○註に、けわい坂と洒落れつつ敬意を表した、著作の実例がある。遺憾ながら「嬉しいですわ。」とはかいてない。けれども、その趣はわかると思う。またそれよりも、真珠の首飾見たようなものを、ちょっと、脇の下へずらして、乳首をかくした膚を、お望みの方・・・ 泉鏡花 「燈明之巻」
・・・ さて、遺憾ながら、この晴の舞台において、紫玉のために記すべき振事は更にない。渠は学校出の女優である。 が、姿は天より天降った妙に艶なる乙女のごとく、国を囲める、その赤く黄に爛れたる峰岳を貫いて、高く柳の間に懸った。 紫玉は恭し・・・ 泉鏡花 「伯爵の釵」
・・・渠は名を近藤重隆と謂う陸軍の尉官なり。式は別に謂わざるべし、媒妁の妻退き、介添の婦人皆罷出つ。 ただ二人、閨の上に相対し、新婦は屹と身体を固めて、端然として坐したるまま、まおもてに良人の面を瞻りて、打解けたる状毫もなく、はた恥らえる風情・・・ 泉鏡花 「琵琶伝」
・・・いったいあんな所へ牛を置いちゃいかんじゃないか。 それですからこれから牽くのですが。 それですからって、あんな所へ牛を置いて届けても来ないのは不都合じゃないか。 無情冷酷……しかも横柄な駅員の態度である。精神興奮してる自分は、癪・・・ 伊藤左千夫 「水害雑録」
・・・自分は横川天神川の増水如何を見て来ようとわれ知らず身を起した。出掛けしなに妻や子供たちにも、いざという時の準備を命じた。それも準備の必要を考えたよりは、彼らに手仕事を授けて、いたずらに懊悩することを軽めようと思った方が多かった。 干潮の・・・ 伊藤左千夫 「水害雑録」
・・・哲学がそれを謳歌し、宗教がそれを賛美し、人間のことはそれで遺憾のないように説いている。 自分は今つくづくとわが子の死に顔を眺め、そうして三日の後この子がどうなるかと思うて、真にわが心の薄弱が情けなくなった。わが生活の虚偽残酷にあきれてし・・・ 伊藤左千夫 「奈々子」
・・・敵塁の速射砲を発するぽとぽと、ぽとぽとと云う響きが聴えたのは、如何にも怖いものや。再び立ちあがった時、僕はやられた。十四箇所の貫通創を受けた。『軍曹どの、やられました!』『砲弾か小銃弾か?』『穴は大きい』『じゃア、後方にさが・・・ 岩野泡鳴 「戦話」
・・・「そりゃア、いかん、呼んで来ねば」と、主人は正ちゃんをつれて大いそぎで出て行き、やがて吉弥を呼び返して来た。「かわせが来たんですか?」と、妻はおこった様子。「ええ」と、吉弥はしょげていた。「じゃア、そう言ってくれないじゃア困・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・ この椿岳は如何なる人物であった乎。椿岳を語る前に先ずこの不思議な人物を出した淡島氏の家系に遡って一家の来歴を語るは、江戸の文化の断片として最も興味に富んでおる。一 淡島氏の祖――馬喰町の軽焼屋 椿岳及び寒月が淡島と名乗・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
出典:青空文庫