・・・それはいずこも松の並木の聳えている砂道で、下肥を運ぶ農家の車に行き逢う外、殆ど人に出会うことはない。洋服をきたインテリ然たる人物に行逢うことなどは決してない。しかし人家はつづいている。人家の中には随分いかめしい門構に、高くセメントの塀を囲ら・・・ 永井荷風 「葛飾土産」
・・・彼の存在は既に生きている時から誰にも認められていなかったのだ。 その時分、踊子たちの話によると、家もあった、おかみさんもあった。家は馬道辺で二階を人に貸して家賃の足しにしていた。おかみさんはまだ婆さんというほどではなく、案外垢抜けのした・・・ 永井荷風 「草紅葉」
・・・けれどもそういう明い晴やかな場所へ意気揚々と出しゃばるのは、自分なぞが先に立ってやらずとも、成功主義の物欲しい世の中には、そういう処へ出しゃばって歯の浮くような事をいいたがる連中が、あり余って困るほどある事を思返すと、先生はむしろ薄寒い妾宅・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・赤が居ないから盗まれたと考えた。赤が生きて居たら屹度吠えたに相違ないと思った。そうして彼は赤を殺して畢ったことが心外で胸が一しきり一杯にこみあげて来た。彼は強いて眼を瞑った。威勢がよくて人なつこかった赤の動作がそれからそれと目に映って仕方が・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・吾人がこの輪廓の中味を充じゅうじんするために生きているのでない事は明かである。吾人の活力発展の内容が、自然にこの輪廓を描いた時、始めて自然主義に意義が生ずるのである。 一般の世間は自然主義を嫌っている。自然主義者はこれを永久の真理の如く・・・ 夏目漱石 「イズムの功過」
・・・「かくてあらんため――北の方なる試合に行き給え。けさ立てる人々の蹄の痕を追い懸けて病癒えぬと申し給え。この頃の蔭口、二人をつつむ疑の雲を晴し給え」「さほどに人が怖くて恋がなろか」と男は乱るる髪を広き額に払って、わざとながらからからと笑う・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・なんでも出来ると思う、精神一到何事不成というような事を、事実と思っている。意気天を衝く。怒髪天をつく。炳として日月云々という如き、こういう詞を古人は盛に用いた。感激的というのはこんな有様で情緒的教育でありましたから一般の人の生活状態も、エモ・・・ 夏目漱石 「教育と文芸」
・・・「復啓二月二十一日付を以て学位授与の儀御辞退相成たき趣御申出相成候処已に発令済につき今更御辞退の途もこれなく候間御了知相成たく大臣の命により別紙学位記御返付かたがたこの段申進候敬具」 余もまた余の所見を公けにするため、翌十三日付を以・・・ 夏目漱石 「博士問題の成行」
・・・終りに宗祖その人の人格について見ても、かの日蓮上人が意気冲天、他宗を罵倒し、北条氏を目して、小島の主らが云々と壮語せしに比べて、吉水一門の奇禍に連り北国の隅に流されながら、もし我配所に赴かずんば何によりてか辺鄙の群類を化せんといって、法を見・・・ 西田幾多郎 「愚禿親鸞」
・・・それは一面に純なる生きた日本語の発展を妨げたともいい得るであろう。しかし一面には我々の国語の自在性というものを考えることもできる。私は復古癖の人のように、徒らに言語の純粋性を主張して、強いて古き言語や語法によって今日の思想を言い表そうとする・・・ 西田幾多郎 「国語の自在性」
出典:青空文庫