・・・私の五つで死んだ妹は、やはり脳に異状が起っているのを心づかず治療をまかせた医師の手落ちで死亡した。 私は、変質者、中毒患者、悪疾な病人等の断種は、実際から見て、この世の悲劇を減らす役に立つと信じる一人である。 結構なことであると思っ・・・ 宮本百合子 「花のたより」
・・・病監での日常事で意見が衝突した重吉について、精神異状者という書類を裁判所へ出した。「わたしはね、こんどこそ、本当にあなたを生かしたいと思って診てくれる人に診せたいの、いいでしょう?」 十二年の間、重吉は彼を積極的に生かそうとする意志・・・ 宮本百合子 「風知草」
・・・弟どもも一人一人の知行は殖えながら、これまで千石以上の本家によって、大木の陰に立っているように思っていたのが、今は橡栗の背競べになって、ありがたいようで迷惑な思いをした。 政道は地道である限りは、咎めの帰するところを問うものはない。一旦・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・なんの異状もない。「先ず好かった」と思った時、眩暈が強く起こったので、左の手で夜具葛籠を引き寄せて、それに靠り掛かった。そして深い緩い息を衝いていた。 物音を聞き附けて、最初に駆け附けたのは、泊番の徒目附であった。次いで目附が来る。・・・ 森鴎外 「護持院原の敵討」
・・・ですからあなたの長所が平生の倍以上になったのがどんなにか嬉しゅうございましたでしょう。 男。なるほど。旨くたくらんだものですね。しかしやっぱり女の智慧です。 女。なぜでございますの。 男。でも手紙を一本落しなすったばかりで、せっ・・・ 著:モルナールフェレンツ 訳:森鴎外 「最終の午後」
・・・ しかし、何といっても、作家も人間である以上は、一人で一切の生活を通過するということは不可能なことであるから、何事をも正確に生き生きと書き得られるということは所詮それは夢想に同じであるが、私たちにしても作者の顔や過去を知っているときは、・・・ 横光利一 「作家の生活」
・・・その翌日になると、彼の政務の執行力は、論理のままに異常な果断を猛々しく現すのが常であった。それは丁度、彼の猛烈な活力が昨夜の頑癬に復讐しているかのようであった。 そうして、彼は伊太利を征服し、西班牙を牽制し、エジプトへ突入し、オーストリ・・・ 横光利一 「ナポレオンと田虫」
・・・専攻は数学で、異常な数学の天才だという説明もあり、現在は横須賀の海軍へ研究生として引き抜かれて詰めているという。「もう周囲が海軍の軍人と憲兵ばかりで、息が出来ないらしいのですよ。だもんだから、こっそり脱け出して遊びに来るにも、俳号で来る・・・ 横光利一 「微笑」
・・・その眼の内には一撃に私を打ち砕き私を恥じさせるある物がありました、――私の欠点を最もよく知って、しかも私を自分以上に愛している彼女の眼には。 私はすぐ口をつぐみました。後悔がひどく心を噛み始めました。人を裁くものは自分も裁かれなければな・・・ 和辻哲郎 「ある思想家の手紙」
・・・そうして道徳と名のつくものを蔑視することに異常な興味を覚えた。宗教は予を制圧する権威でなかったがゆえに好んで近づいたが、しかし何らかの権威を感じなければならない境地までは決してはいって行かなかった。むしろそれを他の権威に対する反逆の道具に使・・・ 和辻哲郎 「『偶像再興』序言」
出典:青空文庫