・・・これは一見封建的の古い思想のように見えるが決してそうでない。最近の運命共同体の思想はこれを新たに見直してきたのである。国土というものに対して活きた関心を持たぬのは、これまでのこの国の知識青年の最大の認識不足なのである。今や新しい転換がきつつ・・・ 倉田百三 「学生と先哲」
・・・印刷局で働いて、拵え方を知っている者の仕業のようだ。一見すると使い古され、しわくちゃになっていた。しかし、よく見ると、手垢が紙にしみこんでいなかった。皺も一時に、故意につけられたものだ。 郵便局では、隣にある電信隊の兵タイが、すぐやって・・・ 黒島伝治 「穴」
・・・ 母は兄の前では一言の文句もよく言わずに、かげで息子の不品行を責めた。僕は、「早よ、ほかで嫁を貰うてやらんせんにゃ。」 母と、母の姉にあたる伯母が来あわしている椽側で云った。「われも、子供のくせに、猪口才げなことを云うじゃな・・・ 黒島伝治 「浮動する地価」
・・・実際無類絶好の奇宝であり、そして一見した者と一見もせぬ者とに論なく、衆口嘖しゅうこうさくさくとしていい伝え聞伝えて羨涎を垂れるところのものであった。 ここに呉門の周丹泉という人があった。心慧思霊の非常の英物で、美術骨董にかけては先ず天才・・・ 幸田露伴 「骨董」
・・・とただ一言。紹巴がまた「めでたき歌書は何でござりましょうか」と問うた。答えは簡単だった。「源氏」。それきりだった。また紹巴が「誰か参りて御閑居を御慰め申しまするぞ」と問うた。公の返事は実に好かった。「源氏」。 三度が三度同じ返答で、紹巴・・・ 幸田露伴 「魔法修行者」
・・・剛勇ではあり、多勢ではあり、案内は熟く知っていたので、忽に淀の城を攻落し、与二は兄を一元寺で詰腹切らせてしまった。その功で与二は兄の跡に代って守護代となった。 阿波の六郎澄元は与一の方から何らかの使者を受取ったのであろう、悠然として上洛・・・ 幸田露伴 「魔法修行者」
・・・ 母親はたった一言も聞き洩さないように聞いていた。――それから二人は人前もはゞからずに泣出してしまった。 * それから半年程して、救援会の女の人が、田舎から鉛筆書きの手紙を受取った――それはお安が書いた手紙だった・・・ 小林多喜二 「争われない事実」
・・・ トロッコのレールが縦横に敷かさっている薄暗い一見地下室らしく見えるところを通って、階段を上ると、広い事務所に出た。そこで私の両側についてきた特高が引き継ぎをやった。「君は秋田の生れだと云ったな。僕もそうだよ。これも何んかのめぐり合・・・ 小林多喜二 「独房」
・・・とは阿房陀羅経もまたこれを説けりお噺は山村俊雄と申すふところ育ち団十菊五を島原に見た帰り途飯だけの突合いととある二階へ連れ込まれたがそもそもの端緒一向だね一ツ献じようとさされたる猪口をイエどうも私はと一言を三言に分けて迷惑ゆえの辞退を、酒席・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
・・・という一言でこれを斥ける勇気を持っている。而してこの知識が私をして普通道徳の前に諦めをつけさせる、しかたがないと思わせる。それ以上、自分に取っては普通道徳は何ら崇高の意義をも有しない。一種の方便経に過ぎない。 まだ一つある。私はむしろ情・・・ 島村抱月 「序に代えて人生観上の自然主義を論ず」
出典:青空文庫