・・・これは一介の商人ではない。我々の生命を阻害する否定的精神の象徴である。保吉はこの物売りの態度に、今日も――と言うよりもむしろ今日はじっとしてはいられぬ苛立たしさを感じた。「朝日をくれ給え。」「朝日?」 物売りは不相変目を伏せたま・・・ 芥川竜之介 「十円札」
・・・閣下はお前がたの思うように、決して一介の武弁じゃない。」 少将は楽しそうに話し終ると、また炉の上のレムブラントを眺めた。「あれもやはり人格者かい?」「ええ、偉い画描きです。」「N閣下などとはどうだろう?」 青年の顔には当・・・ 芥川竜之介 「将軍」
・・・……『その義にあらざれば一介も受けず。その義にあらざれば一介も与えず』という言葉があるな。今の世の中でまず嘘のないのはこうした生き方のほかにはないらしいて」 こう言って父はぽっつりと口をつぐんだ。 彼は何も言うことができなくなってし・・・ 有島武郎 「親子」
・・・『彼は、其の日暮らしに、追われている』と、いう蔑視から、資本家や、編輯者等が、いまだ一介の無名の文筆家に対して、彼等の立場から、冷遇しなかったと何んで言えよう。況んや、私のように、逆境に立ち、尚お且つ反抗の態度に出て来た者を同情するより憎む・・・ 小川未明 「貧乏線に終始して」
彼は人気者になら誰とでも会いたがった。しかし、人気者は誰も彼に会おうとしなかった。いうまでもなく彼は一介の無名の市井人だった。 野坂参三なら既にして人気者であり、民主主義の本尊だから、誰とでも会うだろう。彼はわざわざ上・・・ 織田作之助 「民主主義」
・・・『彼女は今まで自己の価値を知らなかったのである、しかしあの一条からどうして自分のような一介の書生を思わないようになっただろう……自分には何もかもよくわかっている。』 しかし文造は梅子の優しい言葉、その微笑、その愛らしい目元、見かわすごと・・・ 国木田独歩 「まぼろし」
・・・私のような謂わば一介の貧書生に、河内さんのお家の事情を全部、率直に打ち明けて下され、このような状態であるから、とても君の希望に副うことのできないのが明白であるのに、尚ぐずぐずしているのも本意ないゆえ、この際きっぱりお断りいたします、とおっし・・・ 太宰治 「善蔵を思う」
・・・この所長は、とても腰の低いひとで、一介の書生に過ぎぬ私を、それこそ下にも置かず、もてなしてくれました。商売人のようないや味もなく、まじめな、礼儀正しい人でした。本当に、感心な人でした。撮影所の中庭で、幹部の俳優たちと記念撮影をしたのですが、・・・ 太宰治 「小さいアルバム」
・・・闇の中の湖水は、鉛のように凝然と動かず、一魚一介も、死滅してここには住まわぬ感じで、笠井さんは、わざと眼をそむけて湖水を見ないように努めるのだが、視野のどこかに、その荒涼悲惨が、ちゃんとはいっていて、のど笛かき切りたいような、グヮンと一発ピ・・・ 太宰治 「八十八夜」
・・・ 青年は蓬髪を掻き上げて笑い、「まあ、一介のデリッタンティとでも、……」「何かご用ですか?」「ファンなんです。先生の音楽評論のファンなんです。このごろ、あまりお書きにならぬようですね。」「書いていますよ。」 しまった・・・ 太宰治 「渡り鳥」
出典:青空文庫