・・・顔は一見ゴリラに似た、東北生れの野蛮人なのです。しかし目だけは天才らしい閃きを持っているのですよ。彼の目は一塊の炭火のように不断の熱を孕んでいる。――そう云う目をしているのですよ。 主筆 天才はきっと受けましょう。 保吉 しかし妙子・・・ 芥川竜之介 「或恋愛小説」
序 これはある精神病院の患者、――第二十三号がだれにでもしゃべる話である。彼はもう三十を越しているであろう。が、一見したところはいかにも若々しい狂人である。彼の半生の経験は、――いや、そんなことはどうでもよい。彼はただじっと両膝・・・ 芥川竜之介 「河童」
・・・ 斉広がいつものように、殿中の一間で煙草をくゆらせていると、西王母を描いた金襖が、静に開いて、黒手の黄八丈に、黒の紋附の羽織を着た坊主が一人、恭しく、彼の前へ這って出た。顔を上げずにいるので、誰だかまだわからない。――斉広は、何か用が出・・・ 芥川竜之介 「煙管」
・・・あの日、伯母様の家の一間で、あの人と会った時に、私はたった一目見たばかりで、あの人の心に映っている私の醜さを知ってしまった。あの人は何事もないような顔をして、いろいろ私を唆かすような、やさしい語をかけてくれる。が、一度自分の醜さを知った女の・・・ 芥川竜之介 「袈裟と盛遠」
・・・そしてそれは一見そう見えたに違いない。なぜならば、実行に先立って議論が戦わされねばならぬ時期にあっては、労働者は極端に口下手であったからである。彼らは知らず識らず代弁者にたよることを余儀なくされた。単に余儀なくされたばかりでなく、それにたよ・・・ 有島武郎 「宣言一つ」
・・・これは一見きわめて英雄的な態度のように見える。しかしながら本当に考えてみると、その人の生活に十分の醇化を経ていないで、過去から注ぎ入れられた生命力に漫然と依頼しているのが発見されるだろう。彼が現在に本当に立ち上がって、その生命に充実感を得よ・・・ 有島武郎 「想片」
・・・格子のある高い窓から、灰色の朝の明りが冷たい床の上に落ちている。一間は這入って来た人に冷やかな、不愉快な印象を与える。鼠色に塗った壁に沿うて、黒い椅子が一列に据えてある。フレンチの目を射たのは、何よりもこの黒い椅子であった。 さて一列の・・・ 著:アルチバシェッフミハイル・ペトローヴィチ 訳:森鴎外 「罪人」
・・・それは一見かの強権を敵としているようであるけれども、そうではない。むしろ当然敵とすべき者に服従した結果なのである。彼らはじつにいっさいの人間の活動を白眼をもって見るごとく、強権の存在に対してもまたまったく没交渉なのである――それだけ絶望的な・・・ 石川啄木 「時代閉塞の現状」
・・・ その時、もう、これをして、瞬間の以前、立花が徒に、黒白も分かず焦り悶えた時にあらしめば、たちまち驚いて倒れたであろう、一間ばかり前途の路に、袂を曳いて、厚いふきを踵にかさねた、二人、同一扮装の女の童。 竪矢の字の帯の色の、沈んで紅・・・ 泉鏡花 「伊勢之巻」
・・・いかほ野やいかほの沼のいかにして 恋しき人をいま一見見む大正三年一月 泉鏡花 「第二菎蒻本」
出典:青空文庫