・・・自分の作のどういう点がほんとに彼を感動さしたのか――それは一見明瞭のようであって、しかしどこやら捉えどころのない暗い感じだった。おそらくあの作の持っている罪業的な暗い感じに、彼はある親味と共鳴とを感じたのでもあろうが、それがひどく欠陥のある・・・ 葛西善蔵 「死児を産む」
・・・折しも松の風を払って、妙なる琴の音は二階の一間に起りぬ。新たに来たる離座敷の客は耳を傾けつ。 糸につれて唄い出す声は、岩間に咽ぶ水を抑えて、巧みに流す生田の一節、客はまたさらに心を動かしてか、煙草をよそに思わずそなたを見上げぬ。障子は隔・・・ 川上眉山 「書記官」
・・・此処へ来て、何処から現われたのか少も気がつかなかったので、恰も地の底から湧出たかのように思われ、自分は驚いて能く見ると年輩は三十ばかり、面長の鼻の高い男、背はすらりとしたやさがた、衣装といい品といい、一見して別荘に来て居る人か、それとも旅宿・・・ 国木田独歩 「運命論者」
・・・ 川柳の陰になった一間幅ぐらいの小川の辺に三、四人の少年が集まっている、豊吉はニヤニヤ笑って急いでそこに往った。 大川の支流のこの小川のここは昔からの少年の釣り場である。豊吉は柳の陰に腰掛けて久しぶりにその影を昔の流れに映した。小川・・・ 国木田独歩 「河霧」
・・・これは一見封建的の古い思想のように見えるが決してそうでない。最近の運命共同体の思想はこれを新たに見直してきたのである。国土というものに対して活きた関心を持たぬのは、これまでのこの国の知識青年の最大の認識不足なのである。今や新しい転換がきつつ・・・ 倉田百三 「学生と先哲」
・・・十一月一日に六郎左衛門が家のうしろの家より、塚原と申す山野の中に、洛陽の蓮台野のやうに死人を捨つる所に、一間四面なる堂の仏もなし。上は板間合はず、四壁はあばらに、雪降り積りて消ゆる事なし。かゝる所に敷皮うちしき、蓑うちきて夜を明かし、日を暮・・・ 倉田百三 「学生と先哲」
・・・彼等は鮮人に接近すると、汚い伝染病にでも感染するかのように、一間ばかり離れて、珍しそうに、水飴のように大地にへばりつこうとする老人を眺めた。「伍長殿。」剣鞘で老人の尻を叩いている男に、さきの一人が思い切った調子で云った。それは栗島だった・・・ 黒島伝治 「穴」
・・・印刷局で働いて、拵え方を知っている者の仕業のようだ。一見すると使い古され、しわくちゃになっていた。しかし、よく見ると、手垢が紙にしみこんでいなかった。皺も一時に、故意につけられたものだ。 郵便局では、隣にある電信隊の兵タイが、すぐやって・・・ 黒島伝治 「穴」
・・・実際無類絶好の奇宝であり、そして一見した者と一見もせぬ者とに論なく、衆口嘖しゅうこうさくさくとしていい伝え聞伝えて羨涎を垂れるところのものであった。 ここに呉門の周丹泉という人があった。心慧思霊の非常の英物で、美術骨董にかけては先ず天才・・・ 幸田露伴 「骨董」
・・・急ぎて先ず社務所に至り宿仮らん由を乞えば、袴つけたる男我らを誘いて楼上に導き、幅一間余もある長々しき廊を勾に折れて、何番とかやいう畳十ひらも敷くべき一室に入らしめたり。 あたりのさまを見るに我らが居れる一ト棟は、むかし観音院といいし頃よ・・・ 幸田露伴 「知々夫紀行」
出典:青空文庫