・・・ トロッコのレールが縦横に敷かさっている薄暗い一見地下室らしく見えるところを通って、階段を上ると、広い事務所に出た。そこで私の両側についてきた特高が引き継ぎをやった。「君は秋田の生れだと云ったな。僕もそうだよ。これも何んかのめぐり合・・・ 小林多喜二 「独房」
誰でもそうだが、田口もあすこから出てくると、まるで人が変ったのかと思う程、饒舌になっていた。八カ月もの間、壁と壁と壁と壁との間に――つまり小ッちゃい独房の一間に、たった一人ッ切りでいたのだから、自分で自分の声をきけるのは、・・・ 小林多喜二 「独房」
・・・その家の一間を借りて高瀬はさしあたり腰掛に荷物を解き、食事だけは先生の家族と一緒にすることにした。横手の木戸を押して、先生は自分の屋敷の裏庭の方へ高瀬を誘った。 先生の周囲は半ば農家のさまだった。裏庭には田舎風な物置小屋がある。下水の溜・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・それでも、ずいぶん元気で、田舎にもあまり帰りたがらず、入院もせず、戸山が原のちかくに一軒、家を借りて、同郷のWさん夫婦にその家の一間にはいってもらって、あとの部屋は全部、自分で使って、のんきに暮していました。私は、高等学校へはいってからは、・・・ 太宰治 「兄たち」
・・・買って間も無いものらしく、一見したところは私の下駄より、はるかに立派である。私は、なぜだか、ほっとした。救われた気持であった。浅間しい神経ではあるが、私も、やはり、あまりに突飛な服装の人間には、どうしても多少の警戒心を抱いてしまうのである。・・・ 太宰治 「乞食学生」
・・・ この人のアインシュタインに対する関係は、一見ボスウェルのジョンソン、ないしエッカーマンのゲーテに対するようなものかもしれない。彼自身も後者の類例をある程度まで承認している。「琥珀の中の蝿」などと自分で云っているが、単なるボスウェリズム・・・ 寺田寅彦 「アインシュタインの教育観」
・・・と言ったら、一間ばかりあとを雪駄を引きずりながら、大儀そうについて来た妻は、エヽと気のない返事をして無理に笑顔をこしらえる。この時始めて気がついたが、なるほど腹の帯の所が人並みよりだいぶ大きい。あるき方がよほど変だ。それでも当人は平気でくっ・・・ 寺田寅彦 「どんぐり」
・・・何畳だか、一間きりの家の中はよくかたづいていて、あたらしいタンスや紅いきれのかかった鏡台やがあった。「印刷工組合の指導者、青井三吉も、女にかかると、あかんな、うーん」 長野がコップをつきつけた。女房に子供もあるがチャップリンひげと、・・・ 徳永直 「白い道」
・・・流行感冒に罹ってあくる年の正月一ぱい一番町の家の一間に寝ていた。その時雑誌『太陽』の第一号をよんだ。誌上に誰やらの作った明治小説史と、紅葉山人の短篇小説『取舵』などの掲載せられていた事を記憶している。 二月になって、もとのように神田の或・・・ 永井荷風 「十六、七のころ」
・・・この顔にはいろいろの種類があるが、その表情の朴訥穏和なことは、殆ど皆一様で、何処となくその運命と境遇とに甘んじているようにも見られるところから、一見人をして恐怖を感ぜしめるほど陰険な顔もなければまた神経過敏な顔もない。百貨店で呉服物見切の安・・・ 永井荷風 「寺じまの記」
出典:青空文庫