・・・ 謙造は一向真面目で、「何という人だ。名札はあるかい。」「いいえ、名札なんか用りません。誰も知らないもののない方でございます。ほほほ、」「そりゃ知らないもののない人かも知れんがね、よそから来た私にゃ、名を聞かなくっちゃ分らん・・・ 泉鏡花 「縁結び」
・・・ ――ああ、一口、水がほしい―― 実際、信也氏は、身延山の石段で倒れたと同じ気がした、と云うのである。 何より心細いのは、つれがない。樹の影、草の影もない。噛みたいほどの雨気を帯びた辻の風も、そよとも通わぬ。 ……その冷く快・・・ 泉鏡花 「開扉一妖帖」
・・・…… 令嬢の御一行は、次の宿で御下車だと承ります。 駅員に御話しになろうと、巡査にお引渡しになろうと、それはしかし御随意です。 また、同室の方々にも申上げます。御婦人、紳士方が、社会道徳の規律に因って、相当の御制裁を御満足にお加・・・ 泉鏡花 「革鞄の怪」
・・・で、般若は一挺の斧を提げ、天狗は注連結いたる半弓に矢を取添え、狐は腰に一口の太刀を佩く。 中に荒縄の太いので、笈摺めかいて、灯した角行燈を荷ったのは天狗である。が、これは、勇しき男の獅子舞、媚かしき女の祇園囃子などに斉しく、特に夜に入っ・・・ 泉鏡花 「茸の舞姫」
・・・ と一向気のない、空で覚えたような口上。言つきは慇懃ながら、取附き端のない会釈をする。「私だ、立田だよ、しばらく。」 もう忘れたか、覚えがあろう、と顔を向ける、と黒目がちでも勢のない、塗ったような瞳を流して、凝と見たが、「あ・・・ 泉鏡花 「国貞えがく」
一 朝――この湖の名ぶつと聞く、蜆の汁で。……燗をさせるのも面倒だから、バスケットの中へ持参のウイスキイを一口。蜆汁にウイスキイでは、ちと取合せが妙だが、それも旅らしい。…… いい天気で、暖かかった・・・ 泉鏡花 「小春の狐」
・・・多くは一向其趣味を解せぬ所から、能くも考えずに頭から茶の湯などいうことは、堂々たる男子のすることでないかの如くに考えているらしい、歴史上の話や、茶器の類などを見せられても、今日の社会問題と関係なきものの如くに思って居る、欧米あたりから持・・・ 伊藤左千夫 「茶の湯の手帳」
・・・それから源氏物語を読んだが読めればこそ、一行も意義を解しては読めない。省作は本を持ったまま仰向きにふんぞり返って天井板を見る。天井板は見えなくておとよさんが見える。 今夜は湯に行かない方がええかしら。そうだゆくまい。行かないとしよう。な・・・ 伊藤左千夫 「隣の嫁」
・・・家のお母さんは民子が未だ口をきく時から、市川へ往って居って、民子がいけなくなると、もう泣いて泣いて泣きぬいた。一口まぜに、民子は私が殺した様なものだ、とばかりいって居て、市川へ置いたではどうなるか知れぬという訣から、昨日車で家へ送られてきた・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
・・・ などと頻りに小言を云うけれど、その実母も民子をば非常に可愛がって居るのだから、一向に小言がきかない。私にも少し手習をさして……などと時々民子はだだをいう。そういう時の母の小言もきまっている。「お前は手習よか裁縫です。着物が満足に縫・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
出典:青空文庫