・・・大の男が書くのである。いっそ蛍を飛ばすなら、祇園、先斗町の帰り、木屋町を流れる高瀬川の上を飛ぶ蛍火や、高台寺の樹の間を縫うて、流れ星のように、いや人魂のようにふっと光って、ふっと消え、スイスイと飛んで行く蛍火のあえかな青さを書いた方が、一匹・・・ 織田作之助 「大阪の憂鬱」
・・・「追而葬式の儀はいっさい簡略いたし――と葉書で通知もしてあるんだから、いっそ何もかも略式ということにしてふだんのままでやっちまおうじゃないか。せっかく大事なお経にでもかかろうというような場合に、集った人に滑稽な感じを与えても困るからね」・・・ 葛西善蔵 「父の葬式」
・・・だからあなたもいっそ帰ってなぞこなければよかったんですよ。どう気が変って帰ってなぞきたんでしょう。親たちがどんな生活をしてるかもご存じなしに、自分ほどえらいものはないという気でいつまでも自分の思いどおりの生活をして通した方が、あなたのために・・・ 葛西善蔵 「贋物」
・・・みればなおのことその迷妄を捨て切ってしまうこともできず、その結果はあがきのとれない苦痛がますます増大してゆく一方となり、そのはてにはもうその苦しさだけにも堪え切れなくなって、「こんなに苦しむくらいならいっそのこと言ってしまおう」と最後の決心・・・ 梶井基次郎 「のんきな患者」
・・・ ぼんやり軒下に立って目の前のこの世のさまをじっと見ているうちに、「アヽいっそ死んでしまいたいなア」と思った。この時、悪寒が身うちに行きわたって、ぶるぶるッとふるえた、そして続けざまに苦しい咳をしてむせび入った。 ふと思いついたのは・・・ 国木田独歩 「窮死」
・・・それから今の姿におちぶれたのでございますが、今ではこれを悲しいとも思いません、ただ自分で吹く尺八の音につれて恋いしい母のことを思い出しますと、いっそ死んでしまったらと思うこともございますが死ぬることもできないのでございます」 ・・・ 国木田独歩 「女難」
・・・ おきのは、出会した人々から、嫌味を浴せかけられるのがつらさに、「もういっそ、やめさして、奉公にでも出すかいの。」と源作に云ったりした。「奉公やかい。」と、源作は、一寸冷笑を浮べて、むしむしした調子で、「己等一代はもうすんだよう・・・ 黒島伝治 「電報」
・・・「もう一ッペン、あの卯をおこらしてやろうか。」「うむ。」「いっそ、この縄をそッと切っといてやろうよ。面白いじゃないか。」「おゝ、やったろう、やったろう。」二 七年して、トシエは、虹吉の妻となった。虹吉は、二十・・・ 黒島伝治 「浮動する地価」
・・・あがりて村様村様と楽な座敷をいとしがられしが八幡鐘を現今のように合乗り膝枕を色よしとする通町辺の若旦那に真似のならぬ寛濶と極随俊雄へ打ち込んだは歳二ツ上の冬吉なりおよそここらの恋と言うは親密が過ぎてはいっそ調わぬが例なれど舟を橋際に着けた梅・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
・・・それに国との手紙の往復にも多くの日数がかかり世界大戦争の始まってからはことに事情も通じがたいもどかしさに加えて、三年の月日の間には国のほうで起こった不慮な出来事とか種々の故障とかがいっそう旅を困難にした。私も、外国生活の不便はかねて覚悟して・・・ 島崎藤村 「分配」
出典:青空文庫